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#36 知りたい
顔色と表情を喪って、僕をそれに撃ちのめされている。
緑のタイルと自分の上履きに瞳を墜としたまま、打ち拉がれている僕を認めた梗介は、
哀切も同情もおこしていない、常に真実だけを見て射してくる冷えた眼差しで、変わらず煙を燻らせている。
「皆同じだよ。あいつは本当はあんな奴じゃない。自分なら救ってやれる。 やっぱりあいつが欲しい。抱かせてやれば、頼むから自分だけのものにさせて欲しい。——それの繰り返しだ」
「……」
「落ちる必要はねえよ。途中までなら、叶えてやれるぜ。だが自分だけのものに、っていうのは難しいだろうな。
欲しいもん、最大限 に引き出して悦ばすことは、幾らでも可能だろうよ。異常にそれ得意だからな、あいつ。だが、それも所詮嬢の仮面被った演技 に過ぎねえよ。
昨日と同じだ。俺からしたら、保育園のお遊戯と一緒だね。
詰まるところあいつは、俺でなきゃ腰も勃たねえMにしてあるからな。
脳髄かち割って取り替えるくらいじゃねえと、多分無理だろ」
「……」
「お望みなら、別に構わないぜ。俺はいつでも。
あいつだって、むしろ大歓迎なんじゃねえの。
何が良かったか知らねえが、家でやたらお前のこと連発してたからな。
あいつ選り好み激しいから、良かったじゃねえか、気に入られて。中々ないぜ? そういうの」
もはや梗介の言葉も、聞いてるようで、聞こえていなかったかも知れない。
何故、ここに立っているんだろう。そしてこれから、どうやって行けばいいのだろう。
目の前の梗介を置き去りにしてしまうくらい、無力感と虚脱した浮游に、ただ苛まれている。
……救いたいとか、変えたいとか、思っていた訳じゃない。
救うなんて、出来る訳ない。変えたいなんて、希んでなんかいない。彼は彼のままでいいから。
欲しい、とは多分思った。
正直に言う。綺麗で、みだらだから、それにふれて抱きしめられたら、と思ったのは否定することは出来ない。
だけど、それよりも、知ったから。
彼も、始めから、屈託なく僕に接してきた訳じゃない。
話しかけるのに、いつも、僕の様子をそっと窺 っていた。
本当は、多分、ずっと怖がりなんだ。
話しかけて、僕が応える。嬉しい。応えてくれて、嬉しい。
そう感情が、湧き水みたいに溢れてくる。はにかむように、笑った。嬉しさを隠すように、くすぐったそうに緩んだ瞳とこぼれた歯の中に、言葉をしまっていた。
それに、気付いてしまった。
皆んなの前で明るく笑ってるのも眩しい。
みだらに誰かを欲しがってるのも、狂おしい。
だけど、それよりも、ただ思い出されてくるのは、
僕の隣で、首を傾げて素直に僕を見つめて問いかけてくるような、
まっさらであどけない、あの笑顔だけなんだ……。
生温い風とか、橙や黄色の光が頬を射していた気がするが、瓦解した世界のなかで、誰かの残像を瞬かせながら、僕はどれくらいか判らないくらいの流れのなかに、茫然と立ち尽くしていた。
梗介はただ、煙の向こうからその様子を静然と見ていたのだと思う。
始めから彼は、僕を侮ったり、嘲ったりしなかった。
ただ射るように真実を見て、それを貫いてくる。どこまでも、高潔でとおい。
「——…………知りたいか?」
ふと、崩れつつある世界を揺るがすような声が聞こえてきて、僕は顔を上げた。
「ユキのことが、知りたいか?」
煙が退いて、逆光を背に反射させた梗介の精錬とした貌が、僕を見つめていた。
瓦解した世界にその眼は鮮明で、僕は揺り動かされた心地になる。
彼はくれたのだ。 僕に、答えを。
「知り、たいです……」
うわ言のように、そう呟いていた。
梗介の唇が、笑った輪郭を象った。
初めてはっきりと、そのかたちを見た気がする。
笑ってる。 きっと、滅多に笑わない、人だろうに……。
ぼんやりと、その笑んだ唇を瞳に映していた。
「なら、一番手っ取り早い方法を教えてやるよ……」
梗介の右の長い指から、零 れるような音を立てて、白棒が落とされた気がした。
火は着いていて、潤むように赤い塊から、か細い煙が悲鳴のように引かれて、タイルに落ちて、砕けて弾む。
逆光で影が射した唇と体躯の輪郭が、揺れ動いて陰 が占めた気がした。
「あいつと兄弟になりな」
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