37 / 67
#37 奪うじゃない、かおり *
視界や知覚のなかに、さまざまな粒子が、一瞬にして押し寄せたような気がする。
まず、両の瞳で捉えたつもりでいた世界は、翳った。
翳って、すべての輪郭は曖昧だ。
そして、匂い。これが一番、僕の器官のおおよそで感知され、ふるえる間もなく塞いで占められた。
この匂い。
いつだったか、すれ違って、初めて知った、
大人のような艶 と品格で醸成されて、甘くて、苦い切なさのようなものが後を引く、あの匂い。
その匂いが、奪ってきた、訳じゃなかった。
僕のことを奪いに来た訳じゃない。
むしろ、抱擁されたのではないかと錯覚するくらい、その匂いは嫌悪を残さなくて、
陶酔に似た、感覚を狂わせるような浮遊感のなかに僕はいる。
遮られた陽光。
艶のある黒髪が視界のどこかで揺れている。
顔のなかの一点だけに、生温い感触が、掬うように優しくうごめいているような気がする。
色々な感覚が、欠片 みたいに降り注いできて、それさえも夢の中のように現実味 が薄れている心地だ。
でも、感じる。
やっぱり"これ"も、 僕を奪いに来ている訳じゃない。
——…………苦い……、
差していた陰が引いた。絡めとるような匂いも、ゆっくり解き放つように離れていく。
瞳はずっと開けていたから、ごく傍で、視線は一瞬繋がれたような気もしたが、置き去りにされたかのように遠のいていく。
落ちる間際の斜陽は、強い黄の刃を放つらしい。
それを背に、濃灰と荒い朱の陰に覆われたその貌は、あくまでも酷薄で、
何の感慨も浮かんでいない、表情で見降ろしていた。
……くちづけというものは、もっと、数えるくらいしか知らないけれど、
恥じらいとか、いとしさとか、怯えと昂揚がない交ぜになった緊張や、欲しいという隠れたあつい澱みだとか、
そういったものを、感じるものだと思っていたが、
さっきのは、そういったものが、全く感じられない触れ合いだった。
僕に何の情感も抱いていない、冷めたくちびる。
醒めるように感覚が徐ろに呼び込まれていく。
気づいて、おそれるように見上げたままでいたら、それを受け止める筈もない、冷え切った眼のいろにぶつかった。
「あいつのことを散々味わってる口だよ。有難く思いな」
答えられる訳もなく、ただ、その僅かにほそめられた眼を見上げている。
今更になって、何かを飲み込むように微かに喉が動いて、乾いた筈だった汗が、焦りを生じたように温度を含んでいく。
眼の前の彼の、心底うんざりしたように、形の美 い眉が顰められた。
「少しは避けろよ。まさか、そっちの気があるのか」
だったら、もう少しましな反応をしたらどうだよ。
薄い舌打ちとともに吐き捨てられた言葉も、辛辣さは響いてこない。
だって。どうして。
急速に心臓の張り詰めが増していく。
追い縋るように状況を認識として頭で当て嵌めようとするが、導かれる『現実』に、ただただ混乱するばかりの鼓動と思念は防ぎようがない筈なんだ。
自分でも驚くほど理解と反応が遅い。解ってる。だけど、
梗介に口づけられた。
それに気付くまで、こんなにも時間と認識が掛かっている。
ともだちにシェアしよう!