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#38 動かない腕 *
何故。どうして。
その問いすらも、浮かばずにただ唖然とした表情を向けるばかりだったのだと思う。
見上げる僕の瞳には、大半を占めるその混乱の陰に、だけど正直な狼狽えが、きっと揺らめいていた。
遅れてきた羞恥。不可解と困惑。そして隠しきれない、——朧いだ怖 れ。
それを容易く認めた梗介は、冷然とした貌のなかで、唇と下瞼に僅かに開くような緩みを見せた。
「その表情 は、悪くはないぜ」
実際は判らない。だが、にじり寄られたような感覚が迫って、僕の上体は微かにびくりと後退した。
梗介は、きっと動いていなかった。静かに冷笑するような口許は、憐憫に似た柔らかさえ見えた気がする。
「得体の知れない奴を前にする時は、背後に気をつけておくもんだぜ。——坊ちゃん」
示されて、思わず後ろを振り返ってしまった。
何もない。ただ、塔屋の壁だけだ。
しまった。出入り口は遠い。
退路を断たれた、
そう思って振り返る前から、僕の手頸は、僅かに上がっていたのだと思う。
あの匂いが、また背後に迫って来た、と嗅覚が騒めいた瞬間から、吊られるような痛みが、僕の手頸から上空に向かって突き抜け、もう片方の腕も、同じような痛みがたちまちに追って来た。
振り返れば、あの匂い、迫ってくるような梗介のシルエット、それが背中と後頭でがん、と固い壁面に打ち付けられた衝撃で、火花みたいに霧散しそうになる。
瞳は、一瞬閉じてしまったのかも知れない。
手頸から肩にかけて、捻れるような、身体が拒否する感覚が太い針金みたいに通されている。
両の手頸に、物凄い力の輪で括り付けられているような感覚を認めた。
冷たい無機質な壁の温度を背に感じる。
怖れるように目線を上げたら、あの痺れるような芳香を漂わせながら、梗介の貌が、上から地を這う蟻を眺めるような眼で、無感動に僕のことを見降ろしていた。
「……っ……」
何かを発する前に、絡まるような香りと、形の美しい梗介の唇が降りてくるような気配が感じられて、思わず僕は硬直した。
また。
学習した僕の身体が、あの感触を反芻しそうになる。
その予期が裏切られたかのように、梗介の唇は僕の頬を避け、耳の下の首許へ、溜息のような冷笑を漏らした。
「…………残念だな。もう口は吸ってやらねえよ。
誰が好き好んで男の口なんざ吸わなきゃならねえんだ」
そう毒づくのに、首許の梗介の唇は、触れるか触れないかの距離で吐息のような熱を僕に撫でかけ、それが肌にひどく落ち着かない感触をもたらしていた。
「……先輩、待っ……、離して下さい……っ」
「待つ? そんな余裕、あるのかよ。これが欲しくて、居ても立っても居られなくて」
ここに来たんだろ。
耳の下の低音が、口づけるような言葉を転がし、僕の芯が、酩酊するような響きに慄いてふるえた。
この人の声、何だ。
口づけられてはいない。
触れてもいないのに、その低い聲 は、切ない香りも相待って、僕のの奥に知らずに侵入してきて、いまだかつて識 ることのない、この甘い匂いのような惑乱に満ちたなにかで、
僕を引き摺り出し、逃れられない濃い蜜のような覆いで塗り尽くしてしまうようで、おそろしかった。
逃れなければ。本能的な忌避感から、僕は頭上で拘束された腕を動かそうとする。
今更になって、いつの間にか両の腕は梗介にひとまとめに絡げられ、頭上に固定されていることを認識する。
「…………っ……!」
力を込めて、絶望的な感覚に捕われる。
——…………動かない……!
これでも男だ、一応。
だけど力を込めれば込めれるほど、その力は吸い尽くされるようで、確かに腕は捻られていて力の作用が正常に働かない。だけどそれにしても僕を掴むその力は圧倒的に頑強で、人の動きを奪う要所を識っているのか、空しく力を吸われて反動で痛みに腕を震わせるだけなのだ。
脚も、幹のように強固な長い脚に踏み込まれていて、悶えるようにもどかしく捻ることしか出来ない。
徒労に打ち拉がれるような心地で目の前を見る。
力の均衡でがくがく震える腕の狭間で、いつの間にか瞳の前に在る、片掌一つで、僕の両腕を押さえつける梗介は、何一つ力を加えていない無風の貌で、一切その眼の色を変えていない。
これは、何度もそうやってそのちからで人を屈服して、征服してきた者の貌だ。
歴然としたあらゆる力の差に、心 が冷えるように汗が伝う。
「先ぱ……っ……!」
それでも、あらん限りの力を込めて僕は無謀な抗いを続けようとした。
宥めるようにふわりとまたあの香りが降りて来て、頬の横を掠めていく。
「ユキのことが、知りたいんだろ?」
静かなのにその聲は、僕の耳朶 へ、確実に落ち着かなくさせる響きを低くふるわせる。
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