62 / 67

#62 醒めたくない夢

 左方から光を感じた。  屋内だから空調は効いていて、外気の熱を遮断しているはずなのに、人の気配もない、見知りを持たない校内は、僕だけが閉鎖された空間を想わせ、体感より温く、重苦しい温度にぬかるんでいるようで、階段を抜け、早く脱したかった。  だから光を感じた時、不思議に思ったんだ。  窓からの光か、殆ど白の流線みたいな髪か、ピアスか、判らなかった。  振り返る、醒めるような貌。  じっと僕の(なか)を覗き込みような、深く深く、吸い込まれそうな瞳の瞬き。  でも直ぐにころころと零れるような歯を見せて笑う。  陽炎のなかに、髪を掻き上げた横顔が消えて行く。  また会えた。今度は教室の机。  窓際だから光を受けている訳じゃなく、だのにいつも色白の肌がよく映えていた。  肘から手頸にかけての白い(ライン)。頬杖をしばしばついているから、よくそこが瞳に入る。  周りで皆んながさざめいても、掌に乗せたこづくりな貌に小さな笑みを忍ばせて、どこか遠くを見ているようだった。  気まぐれな仔の猫のように、微睡んでしまう。  明るく笑っているばかりだと思っていた。  だけど夕暮れが近づいて、その笑顔が橙と濃灰の闇のなかへと自ら沈み込もうとする。  昼間とは違う、口角の研がれた唇。  伸ばした手が広い肩口に触れ、黒髪が掛かる首筋へ躊躇いもなく鼻先を(うず)める。  唇がふれ合う。それは僕じゃないのに、そのやわらかさに包まれたように鼓動と呼吸(いき)が竦んでしまう。  わらう。  悦びの溜め息がほとばしるように。  穿たれてるのに。奪われているのに。  だけど本当は、初めて瞳にしただけでも、もう解っていた。  それは彼が、瞬間なのだと。  傷ついた瞳。僕を見つめる瞳の奥と唇がふるえているようで、見ていられなかった。  突き放したのに、また嬉しそうに笑ってくれる。  こんなにあざやかな緑は見たことがない。  掌を伸ばすと、その白い甲と静脈まで光と緑のまだら模様に染め上げられ、 本当に、また一緒に、来年その桜を観に行くことが出来るのだろうか。  嗤わないで欲しい。凍りついた表情(かお)をしないで欲しい。  頼むから、自分をそんな貶めないでほしい。  君はそんなに、本当は、けがれてなんかいない。  むしろだ。みんなそれを知っている。  知っているから、みんな。  黒く澄んだ刃のような眦に、最奥の芯を射抜かれる。  へつらいのない、硬質な潔に満ちた艶と色気が存在することを初めて識った。  彼のことが知りたい。叶えられるのだろうか。  本当は、甘くて苦しい、酩酊したその毒の蜜の底に放り出されて、溺れそうになっていた。  掬い上げに来たような、燃える瞳。拳。  その手に掴まれた手首が熱く痺れるようだった。  また、嬉しそうに笑って、僕のこえに応えてくれる。  スプーンの先を見つめる伏せた瞳に、いつもの光は感じられなかった。  だけど君は、ひとりじゃない。  白い鎖骨に銀の鎖が、光の涙のように添っている。  もう近づかないで。そう言われたのに、繰り返されたのに、駄目だった。  僕の方が、よっぽど破綻しているかも知れない。  信じなくていい。心配しなくていい。  君の瞳の奥に在るその『姿』を、勝手に探しに行ってるだけだから。  有難う。わらった(そんな)顔を見せてくれて。 『裕都君て、へんな子』  呆れたような、困ったような、くすぐったそうな全部の顔は、 この世の輝かしいもの全てを受けた、 祝福って、こんなささやかもの、 満ちた光が、滲み出るようだった。  光。  夏の陽炎の遠景を背に、君が振り返る。  耳の繊細な十字架の先も(ひかり)を描いたけど、僕をとらえた光は、君の少しだけ翳った睫毛の奥から(くゆ)らせる、まさに燐光のような揺らぎだった。 『じゃあ、また新学期に』  精巧な花びらみたいな唇が、そのなかに隠された悦楽(ひみつ)をちらつかせるように、ほんの少しだけ、弛んだ。  あんなにたくさん、色々な顔がきざみつけられてきた気がするのに、  君のほんとうって、 一体"どこ"に、あるんだろう…………。

ともだちにシェアしよう!