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第4話 嵐の夜
永青は夜更けに寝返りを打った。
南郷邸に潜り込み半年、情報が思うように集まらないもどかしさに苛立っていた。
日中、小鳩に勉強を教える傍ら、下男としての仕事をこなし、宵の頃には明日、小鳩が解くはずの問題の予習と勉強計画の確認と修正が日課になった。
小鳩は驚くほど熱心で、水を吸い込む綿のように何でも吸収した。教えるのに少しでも手を抜くと、すぐに拗ねて不機嫌になるのはいけすかなかったが、反面、永青を教師として真摯にさせた。
南郷は用心深く、まったく尻尾を出さない。
桂木は「急クベカラズ」と釘を刺したが、永青は無能の烙印を押されまいと、焦りが募っていた。
秋の深まるこの時期、人を遠ざけた邸の静けさは不気味だったが、南郷の書斎を探るなら、誰もが眠っているこの時間帯が最適だった。書斎の前までは幾度も夜中に足を運んでいた。鍵はいつも南郷が持ち歩き、スペアがないことは確認済みだ。昼間、南郷が出かける時には必ず施錠されるため、南郷邸の書斎は「開かずの間」と呼ばれていた。
「あそこは大事なものが置かれているから、掃除も旦那様がするぐらいだよ」
半年の間にすっかり懐いた小鳩が言うには、舶来の貴重な品がある書斎には、南郷以外が出入りすることの方が稀らしい。
始終、明るく振る舞っている小鳩は、南郷の話題を振ると、ふと物憂げになる。そうすると実年齢より幾らか大人びて見える、不思議な青年だった。
鍵が入手不可能である以上、開けて、再び掛けるまでだ。
幸い、今日は嵐だった。
多少荒事になっても音なら誤魔化せる、と判断した永青は、肚を決めると猫のように寝台からまろび出た。
*
夜来風雨が戸を叩く音が激しく鳴っていた。
厠へいくふりをして一階まで下り、南端の書斎を目指すと、やがて書斎の手前の南郷の寝室の扉が薄く開き、中が仄明るいのに気づいた。
人の気配を不思議に思った永青が好奇心と猜疑心から扉の隙間に顔を近づけると、若い男のものと思われる、鋭い声がした。
甲高い、苦しげな吐息交じりの声。続いて南郷のものと思われる地を這うような声が断続的に続く。何を喋っているかまではわからなかったが、永青は咄嗟に若い声の方を小鳩のものかと訝しんだ。
(この夜更けに何を話している……?)
聞き耳を立てる永青の鼓膜を響かせるように、吐息はやがて激しくなり、色を帯びた。それが小鳩のものだと明確にわかった瞬間、永青は反射的にぱっと身を翻し、急ぎ廊下をゆき、階段を上り、自室へと逃げ帰った。
扉を閉め、寝台に潜り込むと、水中で二分近くも息を止めて泳ぎ、水面の上に顔を出した時のように心臓が暴れていた。
あの、声。
おそろしく艶かしかった。
まるで色を知った女の断末魔に似た不吉さがあった。
小鳩の部屋は永青の部屋の斜向かいだ。息を凝らし、永青は、部屋の前の廊下を歩く気配がないかに耳を澄ます。心臓が少し落ち着いてくると、様々な疑問が噴出した。
あの声は本当に小鳩のものだったのか。言葉にできない背徳感に、ぎりぎりと胃が捩れ、不穏な熱が込み上げてくる。思い返すほど疑念が募った。
思考が無軌道に回りはじめ、一睡もできないまま窓の外が白みはじめても、まだ身体を緊張させたまま、永青が聞き耳を立てると、階段が静かに軋む音がした。
軽い裸足の音がぺたぺたと近づいてくる。いつしか風雨は止み、カーテン越しの静かな青い闇が、暁が近いことを教えていた。
永青が声を殺し、耳を澄ましたままやり過ごそうとした刹那、足音がぴたりと部屋の前で止まった。
(——っ……)
最初はただの偶然で、すぐに歩き出すはずだと思った。
しかし、足音はそれきり動こうとしない。
見張られているのか、それとも忠告か。どちらにしろ永青は恐慌状態に陥った。物凄い速さで今夜の行動に瑕疵がなかったか再点検し、南郷にも小鳩にも、盗み聞きが知られるはずはないと結論する。
しかし、ならばなぜ、今、小鳩のものと思われる足音が、扉の前から去らないのか。
混乱と緊張の極みに達し、永青は寝台の中で完全に固まった。
それから、どれぐらい時間が経過したか——。
永青の部屋の扉の前で立ち止まっていた足音は、やがて何かを諦めるようにぺたぺたと進路を変え、斜向かいにある小鳩の部屋の扉を開閉させると、その中へ消えた。耳が痛くなるほどの沈黙に交じり、ごそごそと寝台に這いこむらしき布団の音がする。
足音が小鳩のものだと明確になった永青は、安堵すべきか、迷った。
ただ、暁へ向かう青白い時の中、目を見開き、身じろぎひとつできずにやり過ごす。到底眠れないと思ったが、ふと気配が消えたことに気づく頃には、すとんと短い眠りに落ちていた。
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