5 / 35
第5話 廻る運命(*)
あの声を盗み聞いてから、永青はどこか心ここに在らずだった。
小鳩は翌朝、よく見ると少し寝不足ぎみな顔をしていたが、いつもどおりであった。
「旦那様なら今朝早くに発たれたよ。一週間ほど名古屋だってさ」
永青が探りを入れたことにも気づかず、屈託なく話しをする小鳩に、到底、昨夜のおぞましい夢を打ち明けられない。
永青は上の空で相槌を打ちながら、忘れていた旧い記憶を思い出した。
*
高等学校卒業間近に両親を事故と病気で相次いで亡くした永青が、卒業まで学業を続け、陸軍士官学校への入学資格を得られたのは、当時、何かと目をかけてくれた教師の強い推薦と援助のためだった。
その代償に、教師は一度だけ口淫を強いたが、受け入れる決断をしたのは永青だった。
小鳩が孤児であった時代を経て南郷邸に置かれるに至った経緯にも、あるいはそういったやむを得ない決断があったのかもしれない。いずれにせよ、成人同士の行為であり、当人間の問題である以上、腰掛けの永青が軽い正義感を振りかざす種類のものではない。
ただ、南郷に拾われた時のことを「幸せ」だと断じたことを、永青は浅はかだったと後悔した。
同時に、なぜあれが色事に類するものだと感じたのか、当時の己の心理状態を永青は訝しんだ。月日が経つほど、例えば小鳩が何か粗相を働いて、叱られていただけかもしれないと考えるようになっていった。
そして、この程度の心の揺れで済んでいる己を俯瞰し、永青は胸を撫でおろした。
異国での経験から、任務に支障がありそうなことは、心の奥底に押し込める癖がついていた。
そして季節が再び変わる頃、運命の夜が訪れた——。
*
深々と雪の降り積もる、とびきり冷える夜だった。
未だに南郷の書斎に入れない苛立ちを募らせていた永青が、別の方策を考えるべきだろうかと寝台に横になり考えていると、不意にチリン、と呼び鈴が鳴った。
それは執事部屋に取り付けられている、鳴らずの鈴だった。用事を頼まれる時は決まって小鳩か、他の使用人が永青の居場所を探し出し、直接、呼びにきて、南郷のもとへ出向くのが常だった。だから呼び鈴の存在は知っていたが、それが音を発するのを初めて永青は聴いた。
その鈴が、不規則に、チリン、チリン、と鳴っている。
はじめは隙間風のせいだろうか、と思ったが、何度も鳴り続けるのを不審に思った永青は、寝台から半身を起こした。
(こんな夜更けに……?)
迷った挙句、永青は南郷の寝室を尋ねることにした。もしも不測の事態から、鈴を鳴らしているのが南郷ならば、恩を売りにゆくべきだった。
「夜分に失礼します。大佐、お呼びでしょうか?」
開かずの書斎の隣りにある南郷の寝室の扉は、その夜も薄く開いており、中は煌々と明るい気配がした。
「呼び鈴が何度も鳴るのですが……」
そう切り出し、遠慮がちに扉のノブに手をかけた時。
「あ、ァ、ッ……!」
小鳩のものだとわかる、あえかな声が飛んできた。
「っ……入ります! 大佐……っ?」
永青は途端に背筋がざわつき、室内へと足を踏み入れた。
「大佐、呼び鈴が……っ」
毛足の長い絨毯が、永青の足音を吸収する。ランプの灯で室内は明るかった。部屋の正面にある寝台の上には、袖を半分捲り上げた寝巻き用の浴衣姿の南郷と、裸体に帯だけを巻きつけ、奥の壁にすがっている小鳩がいた。
「っこれは……」
踏み入って最初に目にしたのは、南郷の指だった。太く節があり、いつも軍刀の柄を握る手指が数本、小鳩の後孔へ飲み込まれている。そこをかき回す音に交じり、小鳩が縋る天井の辺りから呼び鈴の紐が垂れており、手を付いたまま身悶えるたびに紐を巻き込み、呼び鈴が鳴ってしまっていた。
「扉を閉めてこちらへこい」
混乱状態の永青を正気づかせたのは、南郷だった。忘れようと努めた記憶が刹那、永青の脳裏に蘇る。脂汗を滲ませ、ふらふらと命じられるまま寝台のすぐ傍まで永青が歩み寄ると、南郷は満足そうに嗤った。
「小鳩、極めてみせろ」
「はぁ、あん、ぁ、っ、旦那様……っ!」
みないで……っ、と乱れた小鳩の声が、永青の足元へ飛ぶ。南郷の指を飲み込んだ小鳩はやがて、びくびくと背中を硬直させた。
「っぁ……!」
「達したな」
南郷は小鳩の中を抉っているのとは反対の腕を小鳩の身体の前へ回し、確認した。
「ご、めな、さ……」
小さく肩を竦めた小鳩が、荒い息のままぺたんと寝台に尻もちを付く。その尻から指を抜いた南郷は、寝台から出ると、傍らのテーブルの上にある煙草を引き寄せた。
「大佐、あなた、は……」
視界の端では、小鳩がのろのろと剥ぎ取られた浴衣を身体に巻きつけている。その目が潤んでいるのは、まだ快楽が去り切らぬせいだろうか。
「鷺沢。貴様が私の何を知りたがっているか知らんが、遠慮はいらん。小鳩に訊け。今夜より、これの世話を貴様に任せる」
永青はかっと血が滾ると同時に、背筋が凍るのを実感した。
何をやっているのか。
こんなことが許されるのか。
叫びたい衝動に奥歯を噛み締めた。昔日の悪夢に足元を掬われた、酷い気分だった。
(違う)
息を弾ませ、状況を整理しようと務める。この背徳的な交わりに呼ばれた事実は、永青にしかできない役割りを期待されていることを示していないか。南郷の仕掛ける心理戦に乗る必要などない。手の内を晒す間違いは犯せない。それ以上に、弱みを曝け出すことは禁忌だった。そう言い聞かせねばならないほど追い詰められていたとしても、この機を逆手に取る以外に、永青には生き残る道はなかった。
「そう怯えずともよい。賃金分働けということだ。今宵の用は終わった。これを部屋まで運んでやれ。腰が抜けてしまったようだからな」
南郷は短く指示し、煙草に火を点けた。
「それとも、貴様も小鳩同様、足が竦んだか?」
小鳩はぼうっと潤んだ目で永青を見ていた。その目が何かを訴えかけようとしているように見えたとしても、永青にしてやれることは何もない。
今夜、この時を以って、この状況を容認することが南郷邸で働く最低条件になった。南郷は小鳩を身体的に支配すると同時に、永青に精神的服従を強いてきた。
永青は静かに奥歯を噛み締めた。何も告げることができなかった。
色に惑わされるなど信じられなかったが、気づくと小鳩を背負った永青は、暗い廊下を歩いていた。
どうやって小鳩を背負い、どうやって南郷の寝室を出たのか、まるで覚えていなかった。
ともだちにシェアしよう!

