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第9話 半旗
七ヶ月が過ぎても、まだ永青の元には南郷から口止め料が届いた。
出奔と言っても、南郷と最初に鉢合わせた妓楼に身を置くより他にあてもなく、簡単に居場所を割り出されたことにも驚きはなかった。最初に楼主から金を渡された時は面食らったが、永青の反発心を、臍を曲げているだけだと嘲笑われている気がして気が滅入った。
桂木には、小鳩凌辱の件は伏せてあった。さらなる信頼を勝ち取るために必要な過程だと苦しい説明をするにとどめたが、その実、これ以上は永青の精神が先に参ってしまいそうだった。
南郷からの金は、とても右から左へと使い切れるものでなく、居候料と称して、どうにか楼主に預かってもらうことになった。
小鳩にあんな真似をしてしまえる己を許容できない永青は、内心、深刻な葛藤を抱えたまま、酒に溺れ、自堕落な日々を無為に過ごした。
その日、宵っ張りの向かい酒をしに、昼を回った頃に起き出した永青を待っていたのは、天皇崩御の一報だった。
明治四十五年七月三十日——。
酒浸りの頭で、流石にこれからのことを考えていると、宵の口に楼主が客をひとり、連れてきた。
「お前さんにどうしても会いたいそうだ」
一瞬、南郷かと思ったが、困り顔の楼主の着物の影から出てきたのは、神妙な顔をした小鳩だった。
小鳩は口元だけで笑みをつくると、楼主が去るのを待ち、口を開いた。
「陛下が身罷られた」
「……」
永青は返す言葉がなかった。どうしていただろうかと、考えない日はなかった。
本来ならば崩御の報のあと、すぐに桂木と連絡を取るべきだったが、作戦終了ならばいずれ向こうから報せがあるだろうと思い直したところだった。
小鳩は永青の部屋の障子を閉めると、神妙な面持ちで正座した。
「大佐は……?」
永青は南郷の生死を案じた。
「旦那様はまだ帰ってきていない。たぶん、今夜帰れればいい方だと思う。だからここへは、おれの判断できた」
南郷の生存に胸を撫でおろした永青を、小鳩は真正面から見た。
「おれ、二十歳になったんだ」
気まずい沈黙の中、万年床から起き上がった永青に、やせ我慢のような微笑を浮かべたままの小鳩が震え出す。
「お願いだ。おかしくなってしまう……」
小鳩はやがて、ぱらぱらと涙を零した。
「帰ってきてくれないか」
たわむ声でかき口説かれ、永青は揺れた。帰れば、あの日々が待っている。それに耐えるだけの準備が、できていなかった。
「この、指で……」
しかし、小鳩の指先が永青の手を取った。そのまま中指を選び出し、くい、と宙で曲げられる。
「こう……、こう、されたい……。こう……。っおねがいだ……」
初めて小鳩に触れた時の熱を覚えていた。中で形をなぞる時のようにされると、言葉にできない衝動が噴き出した。
「なぜ、きた……っ」
絞り出した掠れ声を、小鳩は涙を流しながら受け入れる。
「帰ったら、またあの日々だぞ」
ああして弄ばれ、どこにも放出できない鬱憤を溜め込んだまま生きるのが、つらくないはずはない。
しかし小鳩は達観したように最初の問いにのみ、答えた。
「旦那様の送金先に、ここの住所があったから、もしかしたらって……。妓楼で拾われた、って前に言ってたのを思い出したから」
そんなものを、わざわざ小鳩の目のつくところへ南郷が置くとは思えなかった。
(わざとか……?)
小鳩なりに苦心して、連れ帰るなら今しかないと踏んだのだろう。飛び出してきたようで、よく見ると頬が朱く染まっていた。いつも隙なく着ているはずの洋服も、襟が崩れてボタンが掛け違いになっている。
「もう遅い。帰るなら、送っていこう。だが俺は……」
小鳩を妓楼のような場所に置いておきたくなかった。腰を上げ、促すと、小鳩は膝でいざり寄り、永青にしがみついて懇願した。
「いやだ……! 先生と一緒に帰る……じゃないとっ……」
「小鳩……」
「おれ、もう二週間もお預けなんだ。その前は七日、その前は三日、その前は……今度は、いついけるかわからない。な、頼むよ。一生のお願いだ。おれと一緒に帰ってくれ。でないとこれ以上はもう、おかしくなってしまう……っ」
腫れた唇、泣き腫らした眦、震える肩、そして崩折れそうな細い腕が永青に巻きつく。小鳩が本気になるほど、今すぐ抱きしめて泣かせてやりたい、という強い衝動が肚の底から湧き出すのを、絶望とともに永青は感じていた。
「他の、人間もいるだろう……」
「まともな人ほど、短期間で辞めていくよ。先生だけだ、おれを……意志をもって旦那様に逆らってくれたのは……っ。だから、おれ……。なぁ、帰ってきてくれ、先生。頼むよ……」
誤魔化すように言い訳を試みる己の矮小さが、永青を揺さぶる。小鳩の髪にそっと触れると、頭皮の熱が指先に伝わり、途端に胸が潰れるような想いが溢れ出した。
小鳩を凌辱するなど真っ平だと信じる一方、この華奢な身体に触れたくて仕方がない数ヶ月だった。
「……女を呼んでも、ろくに勃たない。おかげで「君子サマ」と渾名を頂戴した」
「聖人君子の「君子サマ」か。あははっ」
自嘲すると、永青に告白された小鳩はきらきらと笑った。
「大丈夫。不能なんて、おれが治してやる。だから帰ろう? な、先生……」
熱があるのではないかと思うほど熱い小鳩の手に手を握られた永青は、押し切られて妓楼をあとにした。
道行く家々の軒先には、半旗が翻っていた。
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