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第17話 天秤
「ん……」
気を失った小鳩が寝台の上で目覚めるまで、永青は傍で待っていた。
小鳩の部屋はきれいに片付いており、物が極端に少ない。六畳の板張りの床に、寝台と書き物机と小さな書棚を兼ねた箪笥と屑篭だけだ。日当たりはいいが、生気がない。七年も南郷邸に暮らしているにしては、貰い物以外に買ったものがないほど、いつ死んでも心残りのないように整えられて出る、兵舎での生活を思い起こさせた。
「先生……?」
前後不覚だった眸に光が入るのを見届けた永青は、そっとその髪を梳いた。
「……終わったぞ、小鳩」
永青の呟きに事情を悟ったらしき小鳩は、感無量の表情を押し込めようとした。胸を貸してやりたい衝動を堪え、永青は声が震えないよう全精力を傾けた。
「勝手に着替えさせたが、よかったか?」
「ん……? あ、うん……、ありがと」
寝巻き用の浴衣姿であることに気づいた小鳩は、ひと眠りしたとはいえ、まだ消耗を抱えている顔だ。
「小鳩」
「ん……?」
永青は、寝台に横たわり、見上げる小鳩に居住まいを正した。
「俺は……っ」
正座した膝に拳を置き、頭を下げる。
だが、用意したはずの謝罪は零せなかった。
「悪いけど、あんたを殴ったりは、できないよ。それは自分で抱えるものだ。事情は知らないけど……先生はひとりじゃないだろ?」
突き放す言葉に胸を抉られる。小鳩の言うとおりだった。
が、なぜ永青がここにいるのか、その端緒となった分岐点を小鳩に知ってもらいたかった。
「……高等学校の最終学年に上がった夏、俺は一度だけ身売りまがいのことをした。あれを咥えたんだ。あまりにも下手くそで、一度で済んでしまったが、今もそのことが忘れられない……。俺は、南郷大佐に拾われたきみを幸せだと言った。浅はかな物言いだった」
「それが、おれに同情する理由?」
「違う……っ!」
頭を上げ、同情ではないと反駁する前に、永青のうなじを小鳩が掴んだ。そのまま引き寄せられ、小鳩に頭部を抱かれると、涙が滲んだ。
「……よく堪えたね、先生。頑張ったんだな」
小鳩の胸の上で、永青は瞼を閉じ、静かにすすり泣いた。自分の小ささをこれほど厭わしく思ったことはなかった。なぜ取っ組み合ってでも南郷を止めようとしなかったのだろう。命令を遵守することに慣れすぎて、あるいは南郷に気圧されて、永青は罪を犯す理由がないことを理由に、小鳩を犠牲として使ったに過ぎない。
「俺は、きみが……っ」
「おれ、こんな奴だよ」
その場にまるでそぐわない声音で、小鳩が茶化すように零した。少しでも身じろぎしたら壊れそうな、脆い声だった。
「旦那様のことは、嫌いじゃない。ああしておれを弄んで、旦那様の気が晴れるなら……いいと思ってる部分もある。少しは嫌だけれど、もう慣れたし、慣れれば主従関係の延長だよ。おれには、そういうところがあるんだ」
見栄を張るでもなく、小鳩は半分投げやりに明るい笑みを浮かべる。
「呆れたろ?」
静かに零された小鳩の言葉に、永青は滲むように拳を握り、縋った。
「あの行為がきみにとって最善だったわけがない……。俺もきみを弄んだ。だが、それでも言わせてくれ。きみは、こんな扱いを受けるべきではない」
「先生……」
「食い扶持のためなど、嘘だ。俺の左脚ときみの身の上が同等だとも思わない。だが、俺は……」
永青は一度黙った。小鳩のことは、まだ桂木に秘匿したままだ。だが、この窮状に高みの見物を決め込む客らと同じ位置にいる自分を引きずり下ろすには、桂木の協力を得るしかない。
「きみを逃すことができる。きみが望めば」
永青は羞恥心から、顔を上げることができなかった。あんな凌辱に加担した人間を、小鳩が信用するはずがない。私情を挟む愚行に溺れ、処分された幾人かの同僚の末路を間近で見てきた永青は、その夜、初めて規範から逸れる道を自らの意志で選択した。
「……あんた、お人好しだね」
「え……?」
小鳩の腕の力が抜け、そっと永青が起き上がるよう促す。そのまましばらく永青をじっと見ていたが、やがて小鳩は謎かけのようなことを言った。
「天秤の左右にいい顔をすれば、均衡は保たれるけれど、左右のどちらからも裏切りとみなされるよ。だから、ちゃんと決めなきゃ。わきまえていないと……死んでしまうかもしれない。だから……」
「どういう、意味だ……?」
「そう習った。おれはね」
そこまで言うと、小鳩はにぱっと笑みをみせた。そんな抽象的な概念を、いつ、誰から教わる機会があったのか、永青は尋ねることができなかった。そういえば、小鳩は南郷に拾われる以前の話をしたことがない。路上生活を強いられた孤児がどんな末路を辿るか、ぼんやりとわかっていたから、あえて聞こうとはしなかった。
「先生は、おれがあんな醜態を晒したのに、どうして優しいんだ? 自分と重ねたからか?」
小鳩の質問はいつも的確で核心を突く。永青は当然のように上手く答えられた試しがなかった。
「違う。だが……放っておけなかった」
「それ、理由になる?」
「わからない。でも、このままでいいはずがない。絶対に」
鼻先で笑われようとも、永青は静かに心に誓う。これまで永青が守ってきたのは、国家であり組織であり、人ではなかった。人を守るのは、手探りで闇の中を進むような覚束なさがあった。
「じゃあさ、先生……お願い、きいてくれる? いっこだけ」
永青が顔を上げ、頷くのを認めるまで、小鳩はじっと永青を見つめていた。
「おれの、……最初のひとりになってくれ」
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