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第20話 犬の矜持

 会が終わりを告げる頃、再び服を着た小鳩は、南郷と永青が左右にいる狭間で、立ったまま船を漕いでいた。 「……肝が座っているのか、わからんな」  傍の南郷が苦笑とともに向ける小鳩への眼差しは、心なしか柔らかい。そう感じる心を永青は刺し殺し、抉り取りたかった。やがて小鳩越しに南郷の手が、クシャリと永青の後頭部を犬でもかまうように撫でた。 「初めてにしては上出来だ。よくやった、永青」  南郷の労わりに、思わず父が死んだ時のことを思い出した永青は、混乱し、狼狽した。殺しても飽き足らない男の横に並んでいる自分の立場を思い出させることで、心を鼓舞し、疑問を投げた。 「なぜ俺が犬だとわかったのですか」  桂木の元にあるはずの資料は、永青が南郷と接触した時点ですべて処分されたと聞いていた。どこから情報が漏れたのか、まったくわからないことが少し恐ろしかった。 「私も軍人だということだ。心配せずとも、今夜の客は口だけは硬い。それに……裏切り者が誰かを、こちらでも探らせている。貴様が私の周囲をうろつく切っ掛けになった出来事があるはずだが……」  南郷はそれ以上を口にせず、懐から紙幣を数枚取り出し、永青に押し付けた。 「褒美だ、とっておけ」  永青が無造作にそれを押し返すと、南郷は馬鹿にするように笑った。 「貴様は本物の犬か? ここは軍隊ではない。仕事ぶりに対し、きちんと対価を払うのが私のやり方だ」 「いえ……いりません」  受け取ってしまったら、本物の屑になってしまう。犬と罵られようと、馬鹿と思われようと、金には不自由していない。頑なな永青をしばらく南郷はしばらく見つめていたが、やがて詠うように言った。 「今夜はいい働きをしてくれた。私の逸物も反応しそうなほど、大変にいいものだった」  その声は上機嫌で、少し柔らかかった。 「我らと同等の獣の、やせ我慢の尊さよ」  南郷が場を離れ歩き去るのを待っていたように、永青はその場で膝をつき、数度えづいた。  *  小鳩を背負ったまま南郷邸の階段を上るのも、何度目になるかもう数え切れない。  永青が寝台に小鳩を横たえ、踵を返すと、ついと袖を掴まれた。 「先生……」 「……どうした?」  小鳩は先ほどまで寝こけていたのが嘘のように、泣き腫らした目のまま、顔を上げた。 「今夜は……おれの願いをきいてくれて、ありがとう」  ぼそりと甘える声に、永青は胸をかきむしられた。  永青の身辺を嗅ぎ回っていたのが小鳩であることは、先ほどの凌辱の際にはっきりした。小鳩は南郷側の人間だ。だが、時折見せる清廉さは何なのだろう。小鳩に稀にすら見ない美しさを見出すのは、自分が嵌まっている証拠なのだろうか。  南郷を騙すには、小鳩を騙すしかない。それをやり切るだけの芯が、心の中に残っているか、永青は自問した。 「もし、先生がおれを嫌ってなければ……好きに、していい、から」  小鳩が袖を掴んだまま呟いた。永青は胃が燃えるように、その瞬間、沸騰した。 「大佐に何か言われたのか?」 「ううん。まだ、何も……」 「まだ?」 「うん……」  小鳩の言い方が気になるが、袖を振り切れずにいる永青を前に、小鳩は俯いた。 「先生は……女の人の方がいいかもしれないけれど……おれは……。もし、旦那様からこうしろって言われた時は、あんたがいいって、前に決めてた……だから」  今さら白状されたところで状況は変わらない。これ以上、踏み込むのは危険だと、本能が告げていた。第六感が、生き残るために小鳩を警戒すべきだと言っている。  が、永青はそれを無視した。 「小鳩」  永青は、扉の前の闇を見つめていた。 「きみが誰のものだろうと関係ない。きみがやってきたことは、すべて生きるために必要なことだけだ。この屋敷で、きみが難しい立場にいることはわかっている。だから、ひとつだけ約束を」 「約束……? どんな?」  小鳩を繋ぐための楔だ、と永青は言い聞かせた。そうでもしなければ、永青は今、小鳩との逃避行さえ企てかねない。 「俺には、甘えろ」 「っ……」  息を呑んだ小鳩を、永青は振り返った。疲れが限界まできているせいで、小鳩は普段より眦を染め、頬を朱くしていた。 「甘えていい。それも俺の役目だ。俺としたくない時は、言いなさい。無理強いをするつもりはない。何しろ俺は、「君子サマ」だからな」  おどけて言ったつもりだったが、小鳩を見ると、不安に揺れる表情をしていた。今抱き合ったら離れられなくなる予感がある。だから永青は寝台の縁に座り、あえて小鳩を突き放すような言葉を選んだ。 「今夜……もう昨夜か。よくがんばったな」 「……んっ」 「痛くなかったか……?」  小鳩がこくんと頷き、俯いた。 「な、んで……そんなに優しいんだよ……、おかしい……先生……っ」  そのまま歪に、だが、笑う。声を震わせ、肩を震わせ、細い身体を震わせ、全身がわなわなと震え出すに任せたまま、小鳩はぱらぱらといつしか涙を零した。それでいい、と永青は思った。やがて壊れ物にでも触れるように、小鳩の髪を梳いてやる。 「近く、必ず助けがくる。だから、その時まで耐えろ」 「え……?」  永青の言葉におずおずと視線を上げた小鳩は、動揺した目をした。 「俺は軍を裏切るだろう。だが、問題ない。きみだけは、助けてみせる。安心しろ」 「ど……どうして……?」 「きみは南郷大佐に報告しなさい。きみがやったことは、情状酌量の余地が十分にある。俺も食い詰めて軍に入り、戦場にゆき、人をたくさん殺めた。ここは人死にこそ出ないが、戦場みたいなものだ」 「あんた……どうして、そんなに……っ。お、おれが、裏切ったの、知ってるだろ……っ? 何で……っ」 「俺はやることをやるまでだ」 「誰も……っ、助けてくれなんて……っ」  言ってない、と強く言い切り、小鳩は悔しそうに唇を噛んだ。 「小鳩」 「なんで……っ」  血を吐くように半身を起こした小鳩は、目の前の永青を叱責しながら後悔を締め出そうとしているように映った。この存在を、楔として己の肚に打ち込む。一蓮托生に生きるか死ぬか、人生を賭ける決意をするが、それは誰に指図されたことでもない。永青が決めたことだった。  小鳩の目が潤み、永青はそっとその肩を抱いた。 「小鳩、次はいつだ?」  これで籠絡できるなどと甘いことを考えるほど永青はもう「まっとう」ではなかったが、それでも人生の終わりに問いかけられた時、後悔の残る生き方はできなかった。 「次が決まったら、教えてくれ。一緒に——堕ちてやる」 「……っ、せんせ……っ」  小鳩は泣いているのか、永青の肩に伏した場所からは、温かみのある濡れた感触がした。細い身体に両腕をそっと回し、背中をあやすように撫でながら、永青は目を見開き、小鳩の背後の闇を見つめていた。 「いつか、空を見せてやる。東京の空は、広いぞ」  小鳩は小さく悲鳴を上げるように、永青の背中に腕を回した。

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