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第22話 真っ暗闇

 永青が書斎へ入ると、南郷が執務机の向こうから睨んだ。 「御用でしょうか、大佐」  敬礼さえせずにすっとぼける永青が、ふと机の上に視線をやると、新しい木製の額が置かれていた。そこには顔こそわからないが、明らかに先日の情交で、淫らに身体を重ね合い、くねらせている小鳩と永青が描かれていた。白い身体の曲線を束縛するように後ろから抱く永青の骨ばった腕が見える。ふたつの相容れない生き物がひとつになる有り様は、恐ろしいほど色めいていた。 「鉛筆画を趣味にする輩がいてな。送りつけてきた。なかなかの出来だろう?」  永青が眉を寄せるのを愉しそうに、南郷は勲章でも自慢するような調子で言った。永青が沈黙を返すと、南郷はそれを舐めるように味わい、言葉でいたぶった。 「すっかり本物の犬らしくなったな。そんなにあれとの情交は、良かったか?」  嬲られながら永青は困惑した。嫉妬するでもなく、執着するでもなく、南郷はただ、己の情念を小鳩に注ぎ込もうとしているように見える。 「……あなたはいったい、何をしようとしているのですか」  南郷に諜報員だと見破られた以上、今までのようにこそこそ隠れて動くことに意味がない。天秤の中心に立った永青は、流すべき情報を取捨選択し、双方を操り利用することで、事態を操りいいように持ってゆくしかない。小鳩を救うために、必要なことはそれだけだった。 「何、とは?」 「こんなこと、いつまでも続けられるはずがない。小鳩はまだ二十歳です。大人になり、きっと俺やあなたを置いてゆく。前途ある者にする仕打ちではありません。桂木中佐が言っていました。あなたは「優秀な青年将校だった」と。何があなたをそうまで変えさせたのですか」  真摯に問いかけたつもりだったが、南郷は鼻で嗤った。 「あの戦争で変わらぬ方がどうかしている。貴様もそうであろうが」 「俺は……」  あなたとは違う、と咄嗟に出かかった言葉を飲み込む。確かに、永青も変わった。変えられた、というより、変わらざるを得なかった、に近い。南郷はそんな永青の躊躇いを、苦虫でも噛み潰した表情で見透かした。 「私と同類だと認めることが怖いか、永青。だが、その目に移る幻滅は、わかるぞ」 「……」 「背信も裏切りも手ぬるいほどの喪失の果てに、我々はいる。欠落を埋めるために回し車の中を走り続ける以外に、生きる意味を見出せない鼠のようなものだ」 「わかりません、俺は……」  確かに少し前までは、きっと南郷と同じような考え方をしていた。だが、小鳩と出会ったことで、永青の中で何かが変化した。 「昼の授業であれを教えていて、まるで真綿だと感じたことはないか」 「え……?」 「小鳩は教えたことをすべからく吸収する。価値判断の柔らかな頃から、あれにはずいぶんと無理も強いてきた。が、壊れることを知らぬしなやかさが私にもたらすのは安寧だけではなく、焦慮だよ。あれはいわば、底知れない無限の箱だ。開けた者は、注ぎ続け、自らを空にするしかない。そうすることで、まだ私にも新たな可能性が残されていることが証明できるはずだと、祈りながら、な……」 「小鳩は、あなたが時々、泣いているようだと」  そんなことのために、小鳩に衝動をぶつけているのか。南郷のやり方に憤り、顎を引いたものの、永青もまた、小鳩に出会ってすぐの頃は南郷と酷似した想いを抱いていたことに、胸が潰れる思いだった。 「小鳩は人間です。あなたの思っているようなものじゃない。傷つきもすれば、泣きもする。それを我々は尊いことだと学んだはずだ。ひとりの無垢な人間を何かの器にするなど、許されることではない。俺も、あなたも……罪人であることに変わりはない」 「罪人ならば十字架を背負いゆくまでだ。罪を贖えるのは、死の瞬間だけだ」 「大佐……っ」  南郷と話していると、泥濘に引き込まれそうになる。永青をいたぶることに快楽を感じているというより、徹底的な自己批判の末に周囲を巻き込んでいる、狂気じみた衝動を感じた。 「……貴様にも、いずれわかる。ところで、桂木は何を知りたがっている?」  南郷は、これ以上の問答は平行線であると悟ったようで、実務的な話に移った。永青はそれまで感じていた圧から少し解放された気になり、無意識に肩の力を抜く。 「次の日取りです」 「ふむ」 「参加者の氏名及び内情は話して良いとのことでしたので、そのまま伝えました。おそらく、現場を押さえる段取りを組んでいるでしょう。間に合わないように早めるにしても、朔日は避けた方が」  新月の夜の集いであることを、桂木にも流してある。その日にこだわる理由はないと永青は私見を述べた。 「……小鳩の様子はどうだ?」  また小鳩へと話が戻ってゆく。永青が拒絶の沈黙を返すと、南郷は嘯いた。 「いいだろう、あれは。私の最高傑作だ。直接やってやれないのが心残りだよ」  知ったことかと怒鳴りたかったが、小鳩から奪ったのは永青も同じだった。同類と蔑まれても言い返せない。南郷は煙草に火を点けると、煙とともに、息を深く吸い込んだ。 「次の会では、あれを競りにかける」 「っ……!」  永青が殴られたように顔を上げるのを、南郷の昏い眸は予期していたようだった。 「貴様が値段を決めろ。舞台上であれと交わり、あれを散華させるのだ」  ぎり、と奥歯が嫌な音を立てる。南郷が何を考えているのか、永青はついにわからないままだ。これは南郷の中に眠る、単なる破壊衝動なのだろうか。いずれにしても、散華会の集金先が掴めないことには、任務を下りることはできなかった。 「いつです」  永青の短い問いに、南郷はゆっくり煙を吐き出した。 「神無月……旧暦の神無月の朔日。それまでにあれを仕上げておけ。……できるな? 永青」 「……わかりました」  脂汗が滲むに任せ、両手を握ると、永青は喉の奥から声を絞り出した。  何が見えるのか、南郷はただ、窓の外の真っ暗闇を眺めていた。

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