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第23話 「会今宵ニ変更サレシ」
旧暦の神無月の朔日、と南郷の動きを桂木に報せた永青は、夕方、形ばかりの恩給を受け取ると、南郷邸に戻った。
帰るなり、邸内がどこか浮き足立つ様子に、嫌な予感を覚えた永青が急いで靴を脱ぐと、南郷が小鳩を連れて、廊下の先にある書斎へ入ろうとしているのが見えた。
「あ」
小鳩が永青を振り返ると、南郷は頷いて何かを小鳩へ指示した。
「いってやりなさい。手短にな」
「はい、旦那様」
小鳩はこれから栓を挿入されるところなのだろう。頬を少し上気させていた。
「先生、顔色悪いよ。大丈夫?」
「小鳩……」
(今夜——?)
直感した永青は凍りついた。計画どおりに小鳩を仕上げるまで、まだ半月以上あるはずだった。仕上がりの状況を見て時期を早めたというより、桂木と永青を出し抜いたのだ。小鳩は永青を見ると、少し寂しそうに笑った。
「おれ、売られるんだって。先生とも最後だって聞いてる。せいぜい高値で売りつけてやろうよ」
気持ちをもう決めたのか、小鳩は永青に笑うと踵を返した。
「準備があるから、またね。先生」
手短に言うと、南郷のあとを追って書斎に入ってゆく。置いてけぼりにされた永青は、騙されたことを悟った。
「っ……くそっ」
今宵では、いくら何でも早すぎる。南郷に謀られたが、この事実をどうにか桂木に報せなければならなかった。今から俥を飛ばしても、散華会には間に合わない。朔日に対する警戒を怠るなと桂木に進言しなかったことを悔いた永青は、苛立ちを露わに再び靴を履いて外へ出た。
今宵を逃せば、散華会は形を変える可能性が高い。何より小鳩の身の安全を確保できなくなる。
考えながら外を歩くうちに、いつしか立ち枯れの透垣の辺りまできた。永青がため息をつくと、突然、垣根の向こう側から軽快な男の声がかかった。
「旦那、ちょっと伺いますが、小鳩さんは、お留守で?」
「きみは……」
敷島煙草の匂いが流れてきて、永青ははっと顔を上げた。垣根の向こう側に、永青と同年代ぐらいの、ひょろりと背の高い男が立っていた。
紺地の裁着袴の小脇に風呂敷の荷物を持ち、巾着をぶら下げている。小鳩が以前、言っていた、どこぞの大店の手代をしているという若者だろう。
「尾瀬、と申します。小鳩さんとは、呉服屋に奉公している関係でお知り合いになりまして、よくこの辺りで無駄話なんかをするんですが、今日はお見えにならないようで」
尾瀬は「おいちょかぶの話の続きをと思ったんですがね」と、のんびり零した。
「あ、いや。自分が勝手に話しるだけで、小鳩さんに勧めているわけじゃござんせんよ。あの人は四角四面の真面目っ面で、賭け事なんかには興味がないようで」
だから時々、助言を貰うのだと言い訳をした尾瀬は、よく喋るが悪気のない男のようだった。永青が反応を見せないのを見て、気まずそうに立ち去ろうとした尾瀬を永青は本能的に呼び止めた。
「きみ……!」
永青は、ポケットに持っていた小さな帳面に「会今宵ニ変更サレシ」としたため、小さく折り畳むと、表に住所を記し、その紙片を尾瀬の煙草が入れてあるらしき巾着袋の中に突っ込んだ。
「すまないが尾瀬さん、お願いがある。これを日比谷公園前に店を出している水沢青果店の店主に渡してくれないか」
「は?」
「急なことで人を使うことができない。とても大事なことなんだ」
目を丸くする尾瀬の手を掴んで、永青はその場でもう片方のポケットに入れた恩給を取り出すと、それを尾瀬に押し付けた。
「ちょっ……私だってこんなところで油を売ってることがばれたら、叱られますよ……!」
永青は嫌がる尾瀬の手を両手で握り、食い下がった。承諾するまで離さないつもりだった。
「俺は軍人だ。訳あって、身分を偽りこの邸に出入りしている。これを届けてくれれば、陸軍から報奨金が出る。店の者へも後日、必ず事情の説明と謝罪にゆくと約束する。だから頼む、頼まれてくれ……っ」
永青は縋るように言うと、さらに財布から有り金十円三十銭を出し、無理矢理、尾瀬に握らせた。
小鳩の出荷だけはどうしても止めなければ。南郷に出し抜かれた以上、桂木の信頼を失うとしても、手段を選んでいる余裕はなかった。どんな小さな契機も掴まなければ消えてゆく。小鳩が天秤の左右にいい顔をするなと語っていた、今こそがその時だった。
「これは手付金だ。わずかだが受け取ってくれ。伏してお願いする。とても大切なことなんだ。頼む……っ」
「ちょっ、何を……っ、こんな大金……っ」
尻込みする尾瀬を引き止めるために、握った手をそのまま引き寄せ、永青は頭を下げた。無茶苦茶な要求をする人だ、と尾瀬は現金と一緒に軍の恩給の入った袋を見て、腰を引いた。
「速達で出せばいいじゃないですか」
「いや。直接いってくれなければ困る。俥で頼む。小鳩と話したことのある者なら、信頼できる。一刻も早くいってくれ……!」
食い下がり、さらに説得を試みると、渋々といった様子で尾瀬はそれらを懐に入れた。
「ああもう……! 絶対ですよ! あとでちゃんと店まで謝りにきてくださいね!」
「必ず」
永青が頷くと、尾瀬はこちらを振り返りながら踵を返した。
水沢青果店は、情報収集の目的で帝都に張り巡らされている、桂木の息のかかった店のひとつだ。メモが桂木に渡れば、動いてくれるはずだと永青は一心に願った。
俥を拾いに駆け足で去ってゆく尾瀬を見送りながら、やけに足の速い男だなと思った永青は、ひとつ息を吐き、散華会の準備に追われている南郷邸へと引き返した。
制裁を受ける覚悟を決めた一方で、裏切りの代償など惜しくもない、と永青は祈った。
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