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第24話 満州の夢

 シガレットルームには選別された十八名が、今宵の小鳩の落札者たらんとしていた。  南郷が最前列の左隅の決まった席に着くと、どこで雇ったのか競売人が木槌を鳴らし、口上を述べた。 「お集まりの皆様、ようこそ散華会へ。今宵はまずジャケットからです。百円から参ります!」  いくつもの挙手とともに、小鳩のジャケット、タイやカフス、ベストなどが競り落とされてゆく。小鳩が肌を露わにさせはじめると、競売にも熱が入った。シャツのボタンが上から順に落札される頃には、永青でも背筋が寒くなるほどの金額が動いていた。  ズボン吊りにズボン、靴下と靴、上はボタンの取れたシャツを羽織っただけの出で立ちの小鳩が、小さく震えているのが永青の視界に入った。その手をそっと握ると、小鳩は、はっとした表情で永青を振り返り、再び客席へ向き直った。 「三百二十円! 他にありますか?」  木槌の音とともに、ズボン吊りが落札される。競り落とせなかった客らのため息を競売人が木槌で払うと、再び煽り上げてゆく中、永青はそっと小鳩に耳打ちした。 「小鳩。乱入者が現れたら、俺の後ろに隠れていろ。然るべき時がきたら、きみをある人物に引き渡す。そしたら、こんな暮らしとはおさらばだ」 「先生……?」  不安に揺れる小鳩が声を囁く。永青は安心させるために、小鳩以外には聞こえない声で打ち明けた。 「今夜、手入れが入るはずだ」  永青が呟いた直後、何度目になるかわからない、決着を知らせる木槌が音を立てた。  同時に、シガールームの扉の外が騒がしくなる。永青は小鳩の手をぎゅっと握った。時がきたことを知らせる怒号が飛び交い、やがて武装した兵士らが、警備にあたっていた愚連隊と激しくもみ合い、雪崩れ込んでくる。 「何だ、きみたちは……っ!」  銃を向けられた客らは、突然、突入してきた闖入者に戸惑い、喚いた。陸軍の制服に、南郷の余興かもしれないと考える者もいたらしく、半分ぐらいは判断に迷っている。永青が小鳩を背中に庇うと同時に、パン! と鋭い発泡音が室内に鳴り響き、静まり返った。 「お静かに」  静寂に支配された部屋を軍靴で中へ進み出た桂木が、面倒くさそうに競売人の木槌を奪うと、カン、と振り落とし、シガールームの客らを司会席から見渡した。注目を集めた桂木は、ピストルを持ったまま、傍にいた兵士を「ご苦労」と労うと、視線が自分に集中したのを確認し、底冷えのする声で宣言する。 「動いた者は、撃ちます」  その声に、びくりと客らが緊張した。 「全員、両手を上げて、名前と所属を明らかにしたのち、ご退出願う。指示に従うなら乱暴な真似はいたしません。おい」  桂木が促すと、傍の兵士が敬礼とともに報告する。 「はっ、全部で二十二名であります!」 「よし。順次連れてゆけ。ひとりも逃すな。逃げた者は殺して良い」 「はっ!」  この様子を見ても、客らの一部は、まだこれが南郷の催し物である可能性を捨てきれずにいるようだった。というのも、肝心の首魁である南郷が脚を組み、肘掛け椅子に背を預け、悠然としているからだった。 「あなたもですよ。南郷大佐」  桂木が忌々しげに水を向けても、南郷は頑として動こうとしなかった。  だが、業を煮やした永青が、南郷に物を申そうとして、半歩を踏み出し右脚に重心をかけた刹那、鋭い発泡音が部屋の空気を震わせた。 「っ……っ!」  声も立てずに、気づいた時には左脚が破裂した衝撃に見舞われ、永青は崩れ落ちていた。 「先生……っ!」  小鳩の悲鳴と、恐慌状態に陥った客の悲鳴と怒号が響く中、永青はやっと自分が撃たれたことに気づいた。懐かしい痛みと焦慮から顔を上げると、永青の額に向けて桂木が拳銃を構えていた。 「お静かに。お静かに、と言っているのがわかりませんか?」  桂木はうんざりした声を上げ、さざめく客らを尻目に、永青へ向き直った。 「よく報せてくれた……と言いたいところだが、永青。貴様は嘘をついたな? 背中に庇い立てしているのは、どこの誰だ? ええ?」 「中、佐……っ」 「誰だ、と訊いている」  二度、苛立ちを露わに問われ、永青は沈黙したまま、半身を起こした。永青を支えるようにしがみついている小鳩が怒鳴った。 「やめてくれ……! おれの名前は宮ヶ瀬小鳩。南郷家で書生をしている……! この人はおれの家庭教師だ! あんたの任務には関係ないっ……!」 「書生、ねぇ」  桂木は永青と小鳩を見比べたあとで、南郷へと視線を向けた。 「南郷大佐。あんたも例外じゃない。両手を上げて、ゆっくり立ち上がりなさい」 「ふん……」 「それとも可愛いあんたの書生が、痛い目に遭う方が、お好みか」  南郷はそれを聞いても、表向きは顔色ひとつ変えずにいた。出血のせいで朦朧としたまま、永青は小鳩の肩を片腕で抱いた。桂木の銃口へ顔を上げ向き直ると、永青の上司は片頬をぴくりと痙攣させた。 「どうあっても、大佐がこちらへおいでいただけないのであれば、致し方ありません」  桂木は銃を持った手を下ろすと、忌々しげに永青に掴まっている小鳩を引き剥がし、その頬を平手打ちした。 「っ!」  次に永青が無防備になると、流血している左脚を軍靴で踏みつけた。 「ぐ、ぁ、ぁ……っ!」 「せん、せ……っ!」 「ふん。痛みには慣れるものだな。もう一発、ぶち込んでやろうか。え? 永青。貴様の任務は何だ?」 「っ……」 「早くしろ。三度目はないぞ」  永青を抱き起こす小鳩に支えられ、永青は痛みを堪えながら歯を食いしばった。 「金、の流れと……人の、流れを……っ」 「違う!」 「ぐっ……!」  口を開いた途端に、顔を蹴り上げられた。ここまで感情を露わにする桂木は見たことがなかった。 「隠し事は、私は好かん」  銃口を向けられた永青が死を覚悟した時、小鳩が永青の前へ回り込んだ。 「やめろっ! 先生が何をしたっていうんだ! あんた、狂ってる! 心がないのかっ!」 「止、せ……小鳩……っ」 「書生如きが、煩いぞ!」  小鳩の言葉に逆上した桂木が、再びその頬を打つ。 「裏切りには慣れているつもりだが……」  桂木は長いため息をつくと、永青と小鳩の姿に歯噛みし、拳銃を小鳩へ向けた。  その時、南郷がやっと組んだ脚をほどいた。 「止せ、桂木。貴様の悪い癖だ。一度でも間違った者を粗暴に扱い過ぎる。今までどれだけ貴様に貢献したかも考えず、恐怖で支配するか。そんなんでは部下が苦労するだけだ」 「一度の間違いが命取りになると教えられたのを忘れたのか? 南郷。貴様にだけは言われたくない。間違いを重ね続けてきた、貴様にだけは」  南郷が、ゆっくり両手を頭上に上げ、立ち上がると、桂木は悔しそうにその姿をねめつけた。 「満州で狂った貴様などに、何がわかる……っ」 「ふん」  桂木の怨念のこもった視線を南郷は軽く受け流し、小鳩と永青の前へ悠然と赴くと、桂木の正面に立ちはだかった。奇しくも小鳩と永青を庇う形で南郷は立ち止まった。 「大……佐……っ」 「貴様も厄介な奴に拾われたな。永青」 「はっ、貴様に言われたくなどないな。南郷、貴様は……っ」 「落ち着け、桂木。私は丸腰だ」  南郷の腰には刀剣があるが、頭上に持ち上げられた手は、その柄からは遠い。少しの間、南郷と視線を交わした桂木は、やがてさすがにやり過ぎを自覚したのか、近くの兵士に命じた。 「おい、誰か! こいつを止血しろ。手の空いた者に担架を持ってこさせろ!」  あとからきた兵士に、両手を後ろに戒められた小鳩は、やがて永青から引き剥がされ、口を利く間も与えられずに連行された。 「話はあとだ! 連れてゆけ! ひとり残らずだ!」  桂木に命じられて動く兵士らに引っ立てられ、客らは観念し、項垂れ、諾々と従った。シガレットルームがおおよそ空になると、永青を乗せるための担架を取りに、兵士が持ち場を離れた。一瞬だけ、永青の周りが桂木と南郷だけになると、桂木が低い声を出した。 「あなたも、ご同行願いますよ、大佐」 「……ここは取り壊すのか? 桂木」 「証拠は押収ののち、裁判が終わったら廃棄する」  いつもと同じだ、と淡々と返す桂木の方へ、担架を持った兵士が近づいてくる。永青が担架に乗せられ、持ち上げられる直前、桂木が不意に問いかけた。 「なぜ、こんな真似をした。南郷」  怜悧な桂木の、悔しさの滲む声を、永青は初めて聞いた。変わってしまった旧友を悼む色が、思わず表出したようだった。  南郷はしばし黙したあとで、呟いた。 「——こころあてに……」  担架で持ち上げられ、出血に意識が混濁する中、それだけを聞き取った永青は、心を置き去りにしたかのように、南郷の方へ頭だけを向ける。  だが、まるで夢から醒めたような南郷の肉声を、最後まで聞き取る前に、永青は気を失った。

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