26 / 35

第26話 袂にて

 燐寸を擦って、鉛筆画を燃やす。  立派な額は、適当に折り曲げて捨てた。  小鳩の居場所を尋ねるはずが、痛くもない腹を探られないだけまし、という状態だった。  永青は南郷邸まで移動する傍ら、三日前の事件について報じられていることを知るために、新聞を買い求めた。  紙面には、賄賂にまみれた汚職軍人の名が面白可笑しく書き立てられていたが、参考になりそうな情報も、小鳩の名前も存在しなかった。南郷邸の前までゆくと、陸軍が邸の警備をしていた。南郷と出会った妓楼へも足を伸ばしてみたが、逆に預かり金のことを煩く言われるだけで、梨の礫だった。  これからどうしたものかと思った時、永青はふと尾瀬のことを思い出した。店を探し出し訪ねてみると、敷居を跨いだ途端に尾瀬が飛んできて、店の外の細い路地へと引っ張り込まれた。 「困りますよ……!」 「尾瀬さん、すまない。約束を破ってしまっ……」 「それはどうでもいいんです!」  尾瀬は大層動揺した様子で、辺りを見回し、聞き耳を立てている者がいないことを確認すると、永青の襟元を離し、ため息をついた。 「水沢青果店にはいきましたよ。そしたら翌日、憲兵さんがきて……私のことを根掘り葉掘り訊いて、大変だったんだ。あなたのせいだとしか思えない」  それから再び周囲に気を配ると、愚痴を漏らした。 「本当に大変だったんです。旦那様からは大目玉を食らうし……それより、これを返そうと思って」  永青が押し付けた恩給の袋と、十円三十銭を突き返し、尾瀬はやっと気が済んだようにため息をついた。 「すまない、尾瀬さん。それは俺の不徳の致すところだ。不徳ついでに尋ねたい。ここ三日の間に、小鳩の姿を見かけなかっただろうか?」 「いいえ……それが、どうか?」 「探しているが、手掛かりがない。何でもいいから情報が欲しい。彼を……放ってはおけない。何か知らないか?」  腹を空かしていないだろうか。あんな薄着で寒くはないか。連行された先で酷い目に遭っていはしないか。約束も果たせていない。不安ばかりが先行して、藁にも縋る思いだった。必死で食らいつく永青に、しばらく沈黙していた尾瀬は、ぽつりと漏らした。 「南郷さんのところのお屋敷は、今は兵隊さんが見張っていて、誰も近づけないそうですよ」 「ああ。俺は元軍人になった」 「あなたがかかわっていると?」 「言えない」  柏木の手前、義理立てして守秘義務を守ると、尾瀬は驚いたことに苦笑を返した。 「それ、かかわっていると言っているようなものじゃありませんか……まったく、仕方のない人だな。いいですか、高遠さん」  尾瀬はよく見るとなかなかの美形で、柔和な顔立ちをしていた。しばらく永青の前で何か考え込み、やがて首をひと振りすると、続けた。 「これから私の言うことを聞けば——あなたの人生は大きく曲がる。だからもし、これ以上の面倒は御免だと思うのなら、回れ右してきれいに忘れてください。私も忘れます。さっさと知らないふりをして、光の当たる世間へ戻った方がいい」 「小鳩のことか?」  その時になって初めて、永青は、いつ尾瀬に本名を名乗っただろうかと思った。名前を言った覚えはなかったが、あの時は焦っていた。それとも小鳩が教えたのかもしれない。 「日没後、神田橋の袂で——待っています」 「神田橋……?」 「あれは約束があると言っていた」  尾瀬の言葉に、永青の神経がぴりっと張り詰めた。尾瀬がいつ永青の懐に入ったのか、まるでわからないうちに耳打ちし、さっと身体を離したからだ。 「きみは……」 「空を見せてやるのでしょう?」  永青の表情を確認するでもなく、尾瀬は「では」とさっさと踵を返し、店へと戻っていった。

ともだちにシェアしよう!