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第27話 宮城

 欄干に背を預け、ぼうっと橋の袂を見ていた尾瀬は、やがて永青がきたことに気づくと、素知らぬ振りで背中を向け、無言のまま橋を渡り、宮城の門を潜った。足の速い尾瀬に永青が息を切らせて追いつくと、振り返りもせずに釘を刺される。 「ここから先、見たこと聞いたことは、他言無用に願います。私がいいと言うまでは口も開かぬよう。目隠しをさせていただきますが、ようございますね?」 「……生きて、いるんだな……?」  確認を取った永青に、尾瀬は短く頷いた。 「ええ」 「よかった……っ」  しかし、背を丸めため息をついた永青に目隠しをしながら、尾瀬は「生きてはいます……あれを、生きていると言っていいなら、ですがね……」と複雑な後悔と苛立ちを表出させた。  尾瀬とともに二つほど門を潜った気配がしたが、そのあとはぐるぐると小一時間ほど、どことも知れない場所を連れ回された。左脚の痛みに吐き気がしてきた頃、涼やかな草の匂いがする拓けた場所へ出た気配がした。 「もういいですよ」  尾瀬の声がし、永青の目隠しが外される。同時に芝生の敷かれた庭を擁する平屋建築の家屋の濡れ縁を示された。 「こちらでお待ちを」  言葉少なに尾瀬が草履を脱ぎ、勝手知ったる様子で障子の奥へ引っ込んだ。小鳩を連れ戻るのかと待っていたが、期待とは裏腹に、糊のきいた浴衣と救急箱を持って、尾瀬はひとりで戻ってきた。 「血痕で座敷が汚れるといけません。体裁を整えてからにしてください。さ、傷を。ズボンの生地は切ってしまいますが、よろしいですね?」  有無を言わさず、南郷のお下がりの、泥に汚れた正装のズボンが切り裂かれる。一応、麹町の病院に入っている間に治療を受けていたが、尾瀬はひと目見るなり「雑ですね」と眉を寄せた。  手当てを受けながら、永青は尾瀬が口を開くまで待った。  神田橋の不浄門を潜った時、ぼんやりと小鳩の死の可能性も考えた。小鳩がやんごとなき身分にかかわる者ならば、見たこと聞いたことすべてを墓の中へ持ってゆくしかない。  尾瀬は消毒用のアルコールを永青の血まみれの左脚にぶっかけながら、静かに零した。 「『水仔』と呼ばれる存在を?」 「いや……」  尾瀬は永青の膝頭にアルコールで薄まった血糊で漢字をあててみせた。 「水にされた子どもの意味ですが……。やんごとなき血が流れる者を、ここで間引くことはしないのです。我々は、皇居奥の秘匿された場所で養育を受けます。十を数えるまでに、玉体の何たるかを学び、同時に様々な特殊技能を覚える。一人前になると全国へ散り、目に余る不正を糾す任務に就きます」  そういう話を聞いたことがあった。満州で破壊工作に従事していた時に耳にした与太話の類で、証拠もないため陰謀論に終始していたが、軍にいる間、悪事を密かに闇へと葬る特殊部隊が存在するという噂は絶えなかった。 「任期は平均五年から七年。私のようにもっと長い者もいれば、中には「影」を務める者もいます」  尾瀬の声は静かだったが、永青は不安を掻き立てられた。 「小鳩に会ったのは、奉公先の大店で、私が手代を任されるようになった頃のことでした。彼が南郷に拾われたのは、日露戦争の終わった年の暮れ、根雪のまだ残る日でした」  尾瀬は手早く治療を済ませると、永青の左脚を靴脱石の上に静かに乗せた。均整の取れた所作で、相手に警戒させる隙を与えず、懐に入り込む癖があるのだと、その時になって、やっと永青は気づいた。 「当時から……南郷の悪い噂はありました。散華会が分裂したことから、騒ぎが露呈しかけ、我々に詔勅が下ると同時に、帝国議会の成立とともに結成された元・散華会が、主張の対立から解散。新・散華会の主催が南郷になっても、しばらくは適正に運営されていたようです。小鳩は最初、南郷の挙動が逸しないかを見張るために寄越されただけだったのです。しかし、時代が悪かった」  小鳩の最初の使命は、南郷の見張りだったという。しかし、戦争を境に南郷が不能になり、狂ったことに気づくことができなかったのは、小鳩の幼さゆえの瑕疵だった。南郷の蝶番は少しずつ軋み、気づいた時には小鳩もまた、少しずつ狂わされていったのだろう。 「南郷が小鳩に強いたことは、ご存知ですね? それまでも数人を使用人として潜り込ませてきましたが、誰もが南郷は白だと言う。白に違いない、白だと思う、白だろう……我々は焦れました。しかし、南郷が小鳩をいたぶり出したのを契機に、裏帳簿の一部と思われるものが見つかった」  尾瀬は永青の着替えを手伝いながら続けた。  分裂後の散華会は、次第に過激で爛れた秘密倶楽部化していったという。用心深く猜疑心の強い南郷が、ひとり気を許したかに見えた小鳩には、気づく頃には、事件の鍵を握る重責が課せられていた。純潔と引き換えに、小鳩は次第に深みに嵌まり抜けられなくなっていったのだという。その時期に永青が陸軍から命を受け、派遣されてきた。白羽の矢が立った小鳩が永青と出会うことで、南郷の中で何かが変わったのだろうと尾瀬は分析した。  最終的に南郷の狂気を暴くのに七年の歳月を要した。小鳩の存在が南郷を極端な道へ走らせたのかもしれないと、小鳩自身が零していたと言う。 「それでも、あの子に会いたいですか、高遠さん」 「会わせてくれ」  胸の中に吹き荒れる嵐を飲み込むように呻いた。もう、永青が知る小鳩ではないかもしれない。それでも、「約束」を覚えている。永青には、まだ果たすべき義務が残されていた。 「あの子に、恨まれているかも知れませんよ」 「ああ」 「あの子が、あなたを認識するかどうか……」 「それでも」  永青の言葉に、今度は尾瀬が沈黙した。その尾瀬に、永青が言葉を紡ぐ。 「迎えにゆくと約束した。それを果たさなければ……」  不安に揺れる眸で、尾瀬は何度か言葉を呑み込んだ。葛藤の末に、ぽつりと哀しげに呟く。 「あれは、もう……使い物にならない……」 「っ……あんたがついていながらっ……!」  尾瀬の胸倉を、永青は掴んだ。  透垣で尾瀬が小鳩と定期連絡を交わしていたのは、今後の作戦方針を伝達するためだけではない。任務続行が可能かどうか、判断し、上申する権限を、尾瀬は持っていた。小鳩の心理的負担と作戦の遂行を天秤に掛け、指示を出していたのが尾瀬だった。 「私の間違いでした。南郷の計略も、小鳩の状態も……あの子が、明け透けにすべてを話す性分ではないと気づいていたのに、私は……っ」 「俺は殴らないぞ。あんたの罪滅ぼしに乗ってはやる。だが、これは俺の問題だ。誰かの贖罪のために、ここまできたんじゃない」  桂木の言っていた横槍の正体。永青は抗うように尾瀬から顔を背け、吐き捨てた。 「俺が外でこの話をしたら、あんたもただじゃ済まないだろう。それを自罰にするつもりだったなら、残念だったな」 「言ったところでせいぜい与太話ですよ。それに、命令違反は死を以って償う。軍隊とはそういう組織だと、聞き及んでいます。それでもあなたは、あれを庇った。生半可な情ではできないことだ」 「そうか? 俺はあんたのアキレス腱を握っている。おまけに軍に伝手もある。その気になれば醜聞のひとつやふたつ、でっち上げることだってできるんだぞ」  反発するように永青は尾瀬をいたぶった。尾瀬の表情が気に食わなかった。すべてを見透かすような穏やかな顔。以前、永青はそれを見たことがあった。汚泥と硝煙にまみれ、散っていった仲間の顔にそっくりだった。 「高遠さん。あなたを呼びながら、あれが泣くのです。夜がくるたびに。私は、それが不憫でならない……」 「っ……」  その瞬間、音もなく降り積もる雪のように、永青の心に堆積していた小鳩への想いが雪崩を起こした。 (きみは幸せだな——)  放ったあの言葉を、小鳩の前に這い蹲り、取り消してしまいたい。荒れ狂う感情の海で、きっとひとりでいることだろう。すぐに迎えにいってやれなかったことを、詫びて許しをこいたい。任務のためだと言い訳し、小鳩を利用し、ともに堕ちる約束をしながら、独りにしてしまったことを謝罪したい。 「小鳩は……あちらの離れにいます」  尾瀬は、靴脱石の上に永青の草履を用意すると、庭の奥を視線で指し示した。

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