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第28話 徒花

 芝生を踏みしだき、破れ庭に入る。獣道の微かな跡がある草原を進むと、すぐ目前に茅葺屋根の家が、庭を囲む簡素な立て付けの塀越しにあった。  扉は開け放たれている。永青が脚を引きずりながら、中へ進むと、立派だった面影を残した遣り水が、開け放たれた縁側の向かいの池に流れ込んでいた。池を迂回し、開けっ広げの縁側へ進むと、蚊帳の吊られた座敷に一人分の布団が敷いてあり、中に人影があった。灯りは蚊帳の外にひとつきり。それが華奢な影を部屋の襖絵の上に浮かび上がらせている。  小鳩は蚊帳の中にいた。  床の上、半身を起こしたまま、放心していた。抜け殻のように起伏のない眸。永青の気配にも、それは動かない。ただ時々、瞼が機械仕掛けの人形のように開閉される。  白い頬。細い首筋。最後に目にした時よりも、少し痩せて見える。むせ返るほどの草いきれにすら反応しない、静かな死を模した眼差しが、畳の上に置かれる。  風が流れた。  ざあっと草花が独特な匂いを放ち、一斉に音を立てて揺れる。そのさざ波の中を永青が進むと、やがてふと小鳩の視線が動き、永青を捉えた。 「——先生……?」  声を掛けようとした時、小鳩が小さく呼んだ。 「小鳩……っ」  その瞬間、まるで去来した感情に肚の中をかき回されるような表情で、小鳩は胸の上で拳をつくった。怯えるように強張らせた身体が震える様子を見て、永青は罪悪感に打ちのめされる。棒のような左脚を引きずり、座敷の前にある廊下に這いずるようにたどり着いたが、蚊帳の中の小鳩は何かが欠けたように、笑わなかった。 「どうして、ここに……」  草履を脱ぎ捨て、通路へ膝をついた永青は、小鳩の前に這いつくばった。 「尾瀬と名乗る人に、連れてきてもらった」 「尾瀬さんが?」  小鳩はしばらく永青の言葉を反芻して、納得したのか、頷いた。 「そっか……」  少し考えてから、小鳩は影の薄いまま口を開いた。 「先生が旦那様に連れてこられた時、陸軍の横槍が入ったんだって思った。おれのこと、尾瀬さんから聞いた?」 「あらましは。だが、話したいことがたくさんある」 「うん……」  小鳩は受け入れるような素振りで頷き、もう言っちゃってもいいと思うけれど、と静かに続けた。 「桂木中佐は、たぶんあの夜、おれの身分に気づいたんだと思う。だから殴らずにいられなかったんだ。おれ、あんなに強く人から憎しみを向けられたことがなかったから、びっくりしてさ……。たぶん、旦那様や先生を、おれが取ってしまったと思ったんだろうな。いつかは、こうなるだろうと思ってたけれど……隠しててごめんな、先生」  小鳩の話によると、南郷の行状を重く見た宮内省は、小鳩の前にも警告として数名の密偵を南郷邸に送り込んでいた。が、南郷は悪目立ちに気付くと、わざと箍が外れるように色々なことに手を染めはじめた。特務機関に情報がいったのは、数多の情報伝達の過程で、どこからか南郷の行状の一部が漏れたせいだろう、と言った。桂木が、妓楼の主人を抱き込み、永青と南郷の間に渡りをつけたことも、小鳩は最初から知っていた。それでも、南郷をどうにもできなかったし、何もしなかった。小鳩はただ、尾瀬を経由し、玉体へ忠実であろうとした。 「桂木中佐は……旦那様を誘惑して悪の道に進ませたのが、おれだと思ったんだろう。先生のことも、きっと悔しかったんじゃないかな……悪いことをしたよ」 「小鳩……それは違う」  あのあと、桂木に何か無体をされなかっただろうか。どんな扱いを受けていたのか、気になりながら口に出せないでいると、小鳩は少し喋り疲れた様子で深呼吸した。その両手がきつく握られていることに、永青はようやく気づく。 「今さら……後悔しても元には戻らないけれど。でも、何も死ななくたって……」  南郷の自刃を小鳩は聞いたのだ。小鳩があの最後の夜を反芻していることに哀切を感じざるを得なかった。永青も、そうだったからだ。 「旦那様には、何度も引き返す機会があったはずだ。おれを拾ってからも、色々な形で何度も警告したんだ。もちろん、おれが密偵だとわからないようにしていたけれど、時間も機会も、幾度もあったんだ」  だが、南郷はそれらを無視するどころか、半ば追い立てられるように破滅への道をひた走った。新聞が「日露戦争の英雄の不名誉極まりない最期」として南郷のことを書き立てているのを、永青は思い出した。 「あの人は、ばかだ……っ」  震える拳を腿に置きながらぐしゃりと表情を曲げた小鳩は、蚊帳の中で蹲った。 「おれを、こんなにして……ひとりで格好つけて、ひとりで責任をかぶって死んで、それじゃ、誰も彼も浮かばれないじゃないか……っ」  吐き出す言葉は後悔に満ちていた。 「きみは、大佐のことを恨んでいないのか……?」  小鳩は何度も首を横に振った。 「憎もうとしたよ。恨もうともした。だけど……っ、そうしようとするたび、あの人の違う顔が浮かぶんだ。七年も一緒にいて、情が移らない方がおかしい。笑いぐさだよな。……でもあの人は、少なくとも最初は同情で、おれを拾ってくれたんだ。死にそうに寒い雪の夜に、おれを拾って育てるだけの情を、かけてもらった……」  未亡人が生まれ、戦争孤児ができ、社会が動乱に向かう不穏な気配を孕んでいる。南郷が満州で何を見たかを知る者は、誰もいない。そして永青もまた、歪な形ではあるが、南郷に情をかけられたひとりだった。 「旦那様には破滅願望があった。わざわざ先生を連れてきて、おれにあてがって様子を見ていたよ。あんなに疑り深くて人を信用しないのに、おれのことを調べる素振りも見せなかった。いっとう猜疑心が強い人が、おれを信用していた……きっと、知っていて泳がせていたんだ」  南郷の最後に発した言葉が、永青の脳裏を不意に過った。 (心あてに——)  南郷は、小鳩を白菊に見立てたように、己の行く末を予期し、選んだのかもしれない。崖の先端で両手を広げ、深呼吸をするようなところが南郷にはあった。そして、一歩間違えば、永青もそうなっていたかもしれない。小鳩が、南郷を「泣いている」と表現した時、永青は笑えなかった。 「おれは旦那様を裏切った。旦那様は、良くも悪くもおれに色々教えてくれたけど……決して手放そうとはしなかった。おれはまだ、あの人のものなんだ。今も、これからも……。逃れようとして、恨もうとするたびに、心が、どす黒く汚れる気がして、おれが、おれじゃなくなる気がして、どうしようもなくなる。怖いんだ。あの人を憎むのが、怖い……」  身を屈め、鬱屈を飲み込む仕草で、小鳩はそこで言葉を切った。額に脂汗が滲むほど苦しんでいながら、小鳩は赦し忘れる術をどうにか手繰りよせようといしている。 「先生……先生のことも、おれは疎ましく思ったりしていないよ。何だか夢を見ているみたいだったけれど、おれに良くしてくれて、ありがとう。それに、ここまできてくれて……。でも、お別れです。元気で。さよなら」  小鳩は今にも泣き出しそうな表情のまま、蚊帳の外に這う永青にきっぱり別れを告げ、帰るよう促した。

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