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第29話 まっとう

「どうでしたか?」 「ああ……」  煙草の匂いをたどり、尾瀬の元へ戻ると、何かを探るようにじろじろと見られ、永青は眉を寄せた。 「……そんな顔、しないでください。私だって、あなたに会わせてどうにかなるなら……と、軽く考えていたんですから」  永青が何かを言う前に、尾瀬は状況を察したらしく、ため息をついた。 「小鳩は、これからどうなるんだ……?」  使いものにならない、と言われた。その言葉が気になっていた。一方で、任期が明けたら別の人生が用意されていたとしても、驚かない。 「難しいですね。しばらくこちらへ匿って、ちゃんとやっていける算段ができたら、放し飼いにします。恩給が出るので、贅沢さえしなければ何とかやっていけるでしょうが……」  生涯を保証されるとしても、あの状態では難しいだろうことは察しがついた。宮城内に留まり、導き役として残ることも可能だったが、小鳩はそれを希望しなかったのだという。 「きみは関わらないのか?」  いささか意地悪な質問だったが、尾瀬はちょっと永青に視線をやると苦笑した。 「私はかかわりすぎたんですよ。ま、望むところですが」 「そうか……」  おそらく尾瀬は強引に、上に対して小鳩の処遇をねじ込んだのだろう。  永青が沈黙していると、尾瀬は煙草をもみ消し、こちらへきた時同様、永青を手ぬぐいで目隠しした。 「そろそろ帰る時間です。道がわからないでしょうから、不浄門までお送りします」  ぐるぐるときた道と逆順で宮城内をうろうろしながら、永青は暗闇の中に尾瀬の声を聞いた。 「小鳩は私の弟のようなものです。でも、きちんと私がかまわなかったせいか、隠し事ばかり上手くなって……、もどかしさは、あなただけのものではありません。でも、あの子は確信していましたよ。あなたが迎えにくることを」  尾瀬の言葉を聞きながら、永青は胸が潰れそうだった。このまま小鳩と別れ、どうするつもりか己に問いかける。いつか将来、満州の悪夢がただの夢になったら——そんな甘い未来を希望に、自分を騙し続けるしかなかった。南郷と知り合い、小鳩と出会い、永青の身体は小鳩の形を記憶していた。物理的にも精神的にも覚え込まされたその形を、忘れて生きてゆくことができるのだろうか。 「小鳩のことが……俺は、たぶん好きです」 「高遠さん?」  不意に立ち止まった永青に、尾瀬が振り返る気配がする。  永青は根が生えたようにそこから動かず、進まず、引かず、横へもずれず、ただ考えた。小鳩を忘れることなどできない。この記憶を葬ることもできない。南郷への義理も、認めたくないが情もあった。桂木へは。恩がある。だが、そんな外圧は何でもないと、ただ一心に感じていた。 「……尾瀬さん、すまない」 「ちょっ……!」  永青は尾瀬に無断で目隠しをむしり取ると、引き返した。方向と歩速から、ほぼ正確にどこを通ったかわかる。尾瀬の煙草の匂いを逆にたどるだけで良かったが、尾瀬が後からついてくるのを振り切ろうとすると、駆け出した永青の背中に詰る声が飛んだ。 「高遠さん……っ!」 「すまないが、俺は小鳩を捨てられない。別れる気もない。まだ約束を果たしていない」 「馬鹿なことはやめなさい! 投げ飛ばしますよ……っ!」 「どうとでもしてくれ。でも、きみや小鳩に遠慮して、ここを去るのは俺の間違いだ。間違いは正さなければ……っ」 「わかったから……止まってください!」  尾瀬が怒鳴る頃には、芝生を踏みしだき、最初に連れてこられた破れ庭へと出ていた。息を乱しながら野草をかき分け進んでゆく永青に、尾瀬はすっかり追いつくと、永青の浴衣の袖を引いた。 「まったく、あなたって人は……っ。勝手ばかりだっ。恨みますよ……っ」  言いつつ、尾瀬はふと腕を振り上げたが、殴るかどうか迷った末に、静かに下ろした。 「……それで? どうするつもりですか」  仏頂面になった尾瀬の詰問に、永青は訴えるしかなかった。 「小鳩を放り出して生きてゆけるほど、俺はもう「まっとう」じゃないんだ、尾瀬さん」  あの小鳩をあのまま放って去るなど、腹を切った南郷に顔向けができない。何より永青は、もう箍が外れていた。今さら嵌め直すことなどできるはずもない、と尾瀬に説明しようと言葉を探していると、吐き捨てるように言われた。 「あなたがまっとうだったことなんて、あるんですか。ったく……」  尾瀬は悪態をつくと、掴んだままだった永青の浴衣の袖を離した。 「十五分だけですよ。十五分で説得してください。それ以上は、小鳩にとって負担になります」 「恩にきる」  永青が頭を下げると、尾瀬は斜め下に向かって煙を吐き出した。おそらく小鳩に接触した人物についてはすべて調べがついているのだろうが、そのすべてが義務からきたおこない、というわけではなさそうだった。

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