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第30話 哀願
永青が戻ると、小鳩は蚊帳の中だった。
あれから、動いた気配もない。
永青が尾瀬とともに近寄ると、小鳩はようやくゆっくり振り返り、目を瞠った。
「先生……? 尾瀬さんも……」
風穴が空いたような目をしていた。
「すまない、小鳩。まだ平気かい? 高遠さんが、きみに話があるそうだ」
尾瀬が促すと、小鳩は不思議そうに頷いた。
「うん……先生、何か忘れ物?」
尋ねた小鳩からは、ごっそり感情というものが抜け落ちていた。あどけなく問われた永青は、痛む左脚を引きずり座敷へ上がった。痛みを押して胡座をかき、頭を垂れた。
「求婚にきた」
「……は?」
飛び出した言葉に、背後にいる尾瀬も驚いている様子だった。意表を突かれた様子の小鳩に、永青の心がさざ波立つ。痩せぎすの身体に白い顔の小鳩が感情の欠片を思い出すなら、何でもいいから話をしようと思った。
「きみはこれから、どうするつもりだ? 小鳩」
永青が尋ねると、躊躇いとともに小鳩は首を横に振る。
「どうって……まだわからないよ」
「もし、決まっていないのなら、俺と一緒に生きてみないか」
「……」
沈黙を守る小鳩に、永青は胸が痛んだ。小鳩が抜け殻になった責任の一端は、永青にある。だから小鳩を揺らしてあの日々を思い出させようとするのは、永青のエゴで、傷を抉る行為だと自覚していた。
「きみを迎えにゆくと約束した。でも、それだけじゃない。まだ、約束を果たしていないことに気づいたから、戻ってきた」
永青の声に、小鳩の真っ暗闇の眸が少し揺れた気がした。
「おれ……」
小鳩は俯き、手元に視線を下げた。
「……あんまり調子が良くないんだ。特に夜は……。だから、まずそれを治して、しっかり療養して、健康にならないと。将来のことはそれからゆっくり考えるよ。悪いけど、永青さんには、関係のないことだし」
声が少し震えていた。戸惑っているように見えるが、一枚捲れば地獄の釜が煮えている。永青は臆さず踏み込んだ。
「俺にされた酷いことを、思い出すか?」
「っ」
「俺と大佐にされた、非道をきみは……」
「っ……わからない……っ」
「小鳩」
「わかるわけ、ないだろ……!」
眠りを邪魔された猫のように、小鳩は身を竦め、威嚇した。
「小鳩……っ」
「触るな!」
永青が蚊帳に触れようとすると、小鳩の鋭い声が飛んだ。
「おれは、誰ものもにもならないっ……! 誰もおれには、触れさせない……っ!」
穏やかに逡巡していた頃の小鳩は、そこにはもういなかった。身体の中心が裂けるような、切実な叫び声が永青を刺す。尾瀬が見かねて水を差した。
「……高遠さん、もうこれぐらいで。小鳩は……私が蚊帳に触れるのも、嫌がります。まだ駄目なんです。わかったでしょう」
背後から尾瀬に促されるが、永青は振り向かずに意地を張った。
「尾瀬さん。ここで引いては本当に駄目になってしまう。もう少し、話をさせてください」
「しかし……」
渋る尾瀬を後ろに残し、永青は小鳩に向き直ると、痛みで火を噴く左膝を投げ出し、右膝を立て、再び語りかけた。
「俺を見ろ、小鳩」
「……っ」
小鳩がこちらを向くのなら、小鳩の感情の核になれるのなら、それが憎悪でもよかった。
「俺を、憎んで暴れてみろ。きみの中に眠っているそれは、心の芯にあるものだ。本物で、真実だ。否定すべきものじゃない。あれだけのことをされて、壊れない人間なんていない。きみは自分をちゃんと視るべきだ。俺や大佐を、きみから分離してはいけない。そんなことはできないんだ、小鳩。それでは生きられない。だから俺を……」
「やめろっ!」
小鳩は耳を塞ぎ、膝を立てて布団の上で丸くなった。涙こそ見せないが、わずかに両手が震えている。人は特殊すぎる体験をすると、一時的に心を守るために出来事を切り離すことがある。それは永青自身が戦場で体験してきたことだった。
「いいや、やめない。最初に会った夜、きみは月のない夜が怖いと言った。散華会の前身となる出来事が、既にはじまっていたのだと、後からおれは気づいた。きみは恐怖を感じていたんだな? 大佐に対して。それから、自分自身に対しても……。自分が変えられる恐怖は、きみだけのものではない。俺は、そんなきみを子どもだと嗤った。きみが嫌いだったからだ」
「やめろ、聞きたくない……っ」
呻く小鳩に永青は畳み掛けた。
「最初に会った時、その素直で汚れないところが、心底いけすかなかった。俺と同じ孤児のくせに、時代が少し違っただけで、戦争にもゆかず、のうのうと大佐の家で書生なんて身分でぬくぬくと生きているきみのことが、まったく好きじゃなかった。羨望を感じたからだ。きみに対する思い込みでつくられた感情だが、おれはその感情に任せて、きみを弄び、犯した。任務のために、必要だったから、優先順位を付けたんだ」
「いやだ……っ、やだ……っ!」
小鳩が耳を塞いだまま、震えながら身を捩る。永青は身を乗り出し、ずるずると這いずり、息を切らして小鳩の傍へと寄った。そして、残酷な事実を突きつける。小鳩が生きていることを思い出すなら、どんな非難も制裁も、怖くなかった。
「きみがただの孔だったら、どんなにかよかっただろう。だけど、きみは人だった。ひとりの傷つきやすい、卵の膜のような、感受性のある生まれたての人間だった。俺はそれを知りながら、きみを傷つけた。きみを……軽んじた。それは俺の意志だ」
「ちがう。先生はおれを守ろうと……」
「最後は確かに、きみの言うとおりだったかもしれない。どうにか手段がないか探ろうとしたのは嘘じゃない。だが、最初の夜、俺はきみの人生にかかずらっている場合じゃなかった。成人同士のやり取りだ。合意があるなら、外の人間が口を挟むことじゃない。俺は、きみを利用したんだ。自分の立場を固め、価値ある人間だと証明したくて、きみを踏み躙った」
「ちが……、やめ……っ」
「きみは大佐に命じられて、俺のことを探っていたな? 時々、夜中に俺の部屋の前で立ち止まっていたのは、何かを伝えたかったからじゃないのか。あれはきみなりの、救難信号だったんじゃないか。今は、そう考える。すると筋が通る」
「ちがう……っ」
「大佐を救って欲しかったか、小鳩。それとも爛れた生活から、逃れたかったか」
「ちが……っ」
小鳩を言葉で穿ち、永青は風穴を開けようとした。正攻法で説教をしても、到底、伝わらない。ならば、壊すまでだった。
「大佐の要求を呑むのが怖かったはずだ。変わっていく自分が怖かったはずだ。当たり前だ。あんなものは誰でも怖い。俺も……怖かった」
「っ」
真実を吐く時、永青は爽快な痛みを感じた。小鳩を穿つことで、小鳩の心を蘇らせることで、今度は何を証明しようとしているのか、肚の中では笑い草だと思った。
「きみを優先させるふりで、任務にしがみついて見ぬ振りをしたのは、俺が軍人だからじゃない。臆病風に吹かれたからだ。けれど、きみが乱れるのを見るうちに、俺の心は変わっていった。俺は……世のためになる仕事がしたかった。軍で汚れて、少し経歴を調べれば、就職先なんて簡単に撥ねられる。脚のことを差っ引いても、他に道がなかった。そんな人生を送りたかったわけじゃない。本当は、誰かのためになることをしたかった。守る為の、生かす為の仕事がしたかった。きみを凌辱しない人間になりたかった」
「せん……」
先生、と小鳩が呻いた。
永青の声も、いつしか情けなく震えていた。
小鳩は膝を折り、耳を塞いでいた手で頭髪をぐしゃぐしゃかき回した。しばらく沈黙が続き、やがて小さく震える声で囁く。
「先生は、地獄でも……」
小鳩の言葉を待っていた。小鳩が永青を認識しようとするのを望んでいた。
「きみがゆくなら、奈落でも地獄でも」
「お、れが……淫らで、はしたなくても……?」
「言っておくが、乱れるきみは可愛い」
「っ」
その時、すすり泣きが蚊帳の中に満ちた。小鳩の声が、嗚咽を滲ませる。
「おれは、もう嫌だ。こんな人生、捨ててしまいたい。終わりにしたい。今にも未来にも希望がない。このまま死んでいきたいんだ。誰も知らないところで、忘れ去られて消えたい……だけど」
小鳩が握り拳を解くと、顔の前に震える両手のひらを持ってくる。
「生きたい……と望めるなら……、普通に……壊されることなんて、したくなかっ……」
初めて聞いた、小鳩の本音がすすり泣きに消える。永青もまた震えていた。小鳩を壊してしまうかもしれない蓋をこじ開けようとしている自分を何様だと罵る自分の声がしていた。
「俺は、長いこと、裏切りだけを信じて生きてきた。自分自身も、きみも、桂木中佐も、南郷大佐も。周りにも世間にも自分にも、嘘をついて謀ってきた。きみは……憎んで恨んで妬んで、俺を生きながら地獄に落とす権利がある。だが、もしもともに生きてくれるのなら、すべてを投げ打っても、きみを裏切らない。……しばらくでいい。俺と、一緒に生きてみてくれないか……」
戦場に置いてきたと思っていた。恐怖も不安も焦慮も絶望も。それを小鳩に与えることで、永青もまた南郷と同じように、救われたがっていたのだ。だが、もう違う。そんな資格などあるはずがないと叫ぶ心を抱えたまま、それでもやり直せるのなら、小鳩とともに違う道を探したかった。
「無理、だっ……。おれはきっと、あんたがいたら縋ってしまう。旦那様が自害して、あんたも瀕死だ。おれは呪われた存在として生まれてきたんだ……っ」
「それでもいい」
小鳩が捨てるなら、永青が拾う。死を望むなら、生かそうとする。それが残酷な仕打ちだとしても、この儚い存在を手の中に包みたかった。
「俺を選んでくれ。きみが、別の何かを見つけるまでの間でいい」
「嫌だ……っ。無理、だ……っ。そんな、の……」
小鳩が抵抗を続ける。まるで今まで殺めてきた者達の、呪詛の声を聴いているようだと永青は思った。地獄の底で死ぬまで夢に出続ける亡者どもに、死後、喰われるとしても、生きている間だけでいい、小鳩を生かして生きたかった。
「無理でも駄目でもいい。きみが……いや、きみじゃなければ、ならないんだ、俺は」
「っんな、の……っ」
震える小鳩が掛け布団をぐしゃりと握りしめる。都合の良い玩具として扱われてきたことを、認めたあとにしか、永青との未来はないと内心、悟っているのだろう。もがく小鳩を潰すように、永青が続ける哀願を、小鳩は切り裂き殺す権利を持っている。それを永青も知っていた。
「俺と生きてくれ。一瞬でいい。笑わなくても、死にたくなっても、逃げたくなっても、殺したくなってもいい。他には何も望まない。俺を、殺して捨ててもいいから、ともにいてくれ」
首を横に振り続ける小鳩に、永青はずるずると這い寄った。そのまま蚊帳に触れようとして、躊躇う。こんな華奢な小鳩に、永青は、何をしたかをあらためて突きつけられる。
「愛している」
胸に去来した寂しさが、形を持つ。
そんなはずはないと、ずっと拒んでいた。永青の人生にそんなものがあっていいはずがないと、諦めていたはずのひとつの心臓。今、それが音を立てて動いていた。小鳩に切り裂かれ、止まるためだけに動いている。
「夜になるたび、きみを思い出す。きみの形を、色を、熱を、甘さを、そんな自分を引き裂いてやりたい。きみだけじゃない。小鳩。俺も同じだ。夜毎、悪夢の中で、天国にいったり地獄に落ちたりする。でも、そこには必ずきみがいる」
「っ、そんなはず……っ」
「この感情に名前を付けるなら……他に思い浮かばない。少しの間だけでいい。せめて、きみとの約束を果たさせてくれ、小鳩……」
「……っ、そんなの……っ」
できない、できないよ、と駄々をこねる小鳩に、永青はついに蚊帳の裾を握りしめた。
力づくで引っ張れば、きっとこの蚊帳は脆く崩れる。
永青は力こぶを作り、蚊帳の裾を握りしめ、引き倒そうと試みた——つもりだった。
「小鳩……っ」
刹那、視界がぐらりと揺れ、世界が暗転する。
尾瀬と小鳩の鋭い声が飛んだ気がしたが、それから先は何もわからなくなった。
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