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第31話 高遠永青
闇の中、永青はふと、記憶が途切れたことに気づいた。
「……」
瞼を開けると、尾瀬の静かな声がした。
「目覚めましたか?」
「尾瀬……さん……?」
なぜ尾瀬が蚊帳に隔てられた外側に敷かれた布団で横になっているのか、前後不覚のまましばらくわからなかった。
「小鳩の前で気を失ったまま、熱が下がらず、三日も寝込んでいたんですよ」
ため息とともに尾瀬が言葉少なに説明すると、永青はやっと、小鳩を説得中だったことを思い出した。
「小鳩は……っ」
起き上がろうとして、自分の浴衣の袖を、小鳩の拳が引いていることに気づく。いつの間に蚊帳の中で、小鳩が隣りで丸くなっていた。眠っていることを確かめた永青は、ほっと胸を撫でおろした。
「あなたを待って、ずっと起きていたのですが、さっき、お茶ににちょっと眠り薬を入れましたから、しばらくは起きないでしょう。まったくあなたがたは揃いも揃って……私の身にもなってください」
「すまない……」
小鳩のこと以外、考えていなかった。布団の上で小鳩と並んで眠っていた半身を永青が起こすと、尾瀬は蚊帳の外から粥の入った椀を入れた。
「病明けにはこれがいいでしょう」
永青が、かすかに塩味のきいた雑穀粥を頬張るのを見ていた尾瀬は、食事が済むまで何も言わなかった。永青が粥を平らげているうちに、傍らの小鳩がむずがる仕草をする。そのたびに永青は食欲を抑え、小鳩を起こさないよう気遣いながら粥を食した。
「ありがとう。おかげで元気になった」
「その脚、たぶん麻痺が残りますよ」
「知ってる。いいんだ。これは俺の人生みたいなものだから」
本当だったら認めたくない事実だったが、なぜか左脚のことを受け入れている自分を、永青は訝った。
「あなたは相当、馬鹿ですね。到底、間諜には向いていない。隠し事は下手くそだし、自分を偽れない。情報源にいちいち同情してたら、命が幾つあったって足りません」
尾瀬は嫌味のつもりでいったのだろうが、まったくそのとおりだった永青は黙っていた。すると永青が無反応なのが気にくわないのか、尾瀬は再びため息をついた。
「ん……」
永青の袖を握った小鳩が身じろぎする。そよ風が宵の気配を運んでくる日暮れ時だった。
「せんせ……」
呼ばれて永青の心臓が跳ねた。見下ろす小鳩は目の下にクマをつくっており、眠っている間に永青がどこかへいくことのないよう、しっかり着物につかまっている。まるで命綱を握っているようだった。
「先生……」
どんな夢を見ているのか、できるなら悪夢でないことを祈った永青が、そっと小鳩の髪を梳く。尾瀬が、永青の食した粥の椀を回収すると、小鳩が目を開けた。
「……小鳩」
永青は自分の声が柔らかいことに気づき、驚いた。
「話の続きをしよう」
囁くように言い、まだ若干、薬が残っているのか、微睡む小鳩を促す。
「きみが何をして生きてゆくのか、俺に見つける手伝いをさせてくれないか?」
「……」
小鳩は永青の方を向いていた身体を仰向けにし、じっと蚊帳の釣られた天井を見ながらぽつりと言った。
「……食い扶持のために、花屋でもやろうかと思ってたんだ……」
初めて聞いた小鳩の希望に、永青は胸が熱くなった。
「でも……きっと客商売には向かないし、上手く笑ったりもできないかなって」
「俺がその分、笑って接客する。人手もいるだろ」
「おれには何もないのに」
「きみがいれば、あとは俺が何とかする。だから……」
「馬鹿だろ、あんた」
刹那、小鳩の伏せられた瞼から、ぽろりと大粒の涙が零れた。
「尾瀬さんにも同じようなことを言われたが」
永青が自虐すると、小鳩は寝返りを打ち、外の庭へ身体を向けた。無言のまま震えている肩を見て、きっと泣き顔を見られたくないのだろうと永青は思った。それでよかった。
「きみと、生きてみたい。……しばらくでいい。いらなくなったら、捨てていい」
「っ……」
声を堪えて泣く小鳩の背中を、永青は静かにさすった。
「決めたんだ。きみと同じものを見て、同じものを食い、同じ場所で生きる。きみが二の足を踏むなら、俺が踏み出す。一緒に生きよう、小鳩。きみがどうしても気が済まないという日がきたら……俺を殺して、忘れて、生きていい。だから……」
「後悔、するよ……」
「してもいい。俺はきみがいい」
「いつ、までとか……おれには決められないよ……」
心細い声で繰り返す小鳩の華奢な背中が、触れた指が震えるほど愛しい。溢れ出る衝動をいなし、小鳩と並び立ち、支えたいと思うのが不思議だ。支えられるほど確かな両脚は既になく、壊れかけのポンコツだというのに、それがまったく気にならなかった。
「きみが、俺を嫌いになるまで、ずっとだ。きみが決められないうちは、俺は離れない」
ずっと死に場所を探していた。
だが、もう必要ないのだと悟る。永青は左脚を踏ん張れないまま右脚と腕と身体ですり寄って、そっと小鳩を背後から抱きしめた。震える身体に腕を回し、小鳩の髪の匂いをかぐ。
「生きよう、小鳩。俺と一緒に」
「……っん」
震えながら、小鳩が膝を丸め、ほんの少しだけ頷いた気がした。胸に温かなものが満ちる。生命力のようなものが、身体の怠さを払拭してくれるのだと、永青は初めて知った。
「できれば、ずっと、きみと……」
その呟きが小鳩に聞こえたかはわからない。
ただ、そのまましばらくいると、やがて背後で尾瀬の咳払いがした。
「私を忘れないでくださいよ。まったく、仕事が増える一方だ……」
ぶつくさ文句を唱える尾瀬だったが、その声は、どこか晴々としていた。
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