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第32話 宮ヶ瀬小鳩(*)
それから十日を跨いでも、何かと外が騒がしいから、という理由で、永青は小鳩とともに宮城の奥深くにあるあばら家に匿われたままだった。
居候の日々はそのまま続き、尾瀬のはからいで永田町付近に二階建ての一階部分が店舗になっている空き家が手配される頃には、すっかり秋も終盤にさしかかっていた。
小鳩と永青が宮城を出て一軒家へ引っ越し、近所への挨拶回りを済ませると、開店した『みやたか生花店』には、ぽつりぽつりと小口の注文が入るようになった。
大家は鷹揚な人柄で、尾瀬の知り合いとのことだった。小鳩を見る眼差しから、足を洗った例の『水仔』だろうか、と一瞬、考えたが、永青は詮索しなかった。越してきてから店が軌道に乗るまでずっと、目まぐるしくしていたため、ひと息つく頃には、あっという間に冬が訪れた。
永青は小鳩と代わる代わるに店番の時間を決め、配達が重なる時はひとりで出かけることもあった。桂木に破壊された左脚には、先だって忠告されたとおり少し麻痺が残ったが、切断の必要もなく、どうにか動いてくれるのは幸運だった。
季節が変わりゆくのを日々の花々の変化から学ぶ生活が板につき、仕事の段取りもだいぶさまになってきて、売り上げがきちんと出ることが確認できたその年の冬の夜、永青は小鳩と、ささやかな祝宴を開いた。といっても、いつもよりおかずが一品多いだけの、酒もつかない晩餐だったが、ふたりとも大いに食べた。
食後の後片付けをして、順番に風呂に入ると、もうやることがない。冬の夜は長く、手持ち無沙汰になりがちで、永青も小鳩も自然と口数が減った。
新月のたびに、小鳩はまだ少し不安定になる。
並べて敷いた布団に湯冷めしないように別々に包まると、体温が布団の中綿に広がるまで、じっと耐える夜が続いた。
*
嵐の予感をさせる風が、戸板を騒がしく鳴らす宵だった。
「厠へ……」
店仕舞いをし、夕餉と風呂を済ませ、あとは眠るだけとなった小鳩が、包まっていた布団から出て、階段を下りていった。
「……」
今夜は新月ではないはずだが——と、確認する癖が永青にはついていた。
たまに夜半、気づくと、掛け布団を羽織り部屋の隅で震えながら蹲っている小鳩を見つけることがあった。小鳩に付き合い、布団を身体にぐるぐる巻きつけたまま、寒さに身を寄せ合うようにふたりで部屋の隅で凍えているうちに、小鳩の寝息が聞こえることもあった。逆に永青が先に寝落ちしてしまい、小鳩の膝の上に頭を乗せたまま目覚めることもあった。
互いにどちらも不文律のように、不用意に触れ合う真似だけはしなかった。南郷邸を出て、宮城で世話になって以降、そのことが話題に上らないように、双方とも頑なに気をつけていた。
小鳩が怯えて仕方がない夜は、布団から手だけを出し、握って眠る。過ぎる接触が情動を呼び覚まさないように、永青は小鳩が望んだ範囲にだけ慎重に踏み入り、あくまで傍で支えることに重点を置くことで、己を保つ毎日だった。
(……新月には、まだ数日ある……)
だが、そんな夜に限り、やけに小鳩の戻りが遅いことに気づいてしまう。
雨が戸を叩く音が激しくなり、永青は眉を寄せ、渋々目を開けた。
振り向くと、頬が肌を刺すような寒さだった。綿入れを着て起き上がると、小鳩は薄着の浴衣のまま厠に向かったらしく、綿入れが行儀よく布団の隅に畳まれていた。戻る時に行き会えば、凍える思いをしなくても済むと思い立った永青は、小鳩の綿入れを小脇に持ち、厠へ向かった。
階段を下り、裏木戸に続く板塀沿いに庭の隅を歩くと、氷雨の降る闇の中、厠の質素な建物が見えてくる。覗いてみたが、小鳩の姿がなかった。忽然と消えてしまった不安に永青が急いで引き返すと、母屋の風呂場がカタカタと、何か不規則な音を立てていた。
不審に思うと同時に、きっと小鳩が中にいるのだと推理した永青は、その戸を半分、引き開けた。
「大丈夫か、小鳩? 調子でも悪……」
この寒さだ。中で倒れていたら、と不安になった永青が脱衣場を覗き込むと、引き戸に背を向けた小鳩が、壁に片手を付き、膝をついて蹲っていた。
「せ、んせ……っ」
振り返った小鳩の様子に、永青は目を瞠った。
目に涙をため、荒い息をし、頬を上気させ、浴衣の裾を乱暴に捲り上げ、下帯をずらして後孔に指を挿入している。殴られたように何が起きたかを理解した永青は、一方で、今、見ているのが己の願望がつくり出した幻影ではないかと疑った。
「小、鳩……?」
恐るおそる掠れた声が出る。
「っ」
振り返った小鳩と目が合うなり、永青はずるずると戸口に膝を付いた。
極寒の中、しどけなく浴衣が乱れ、白く華奢な臀部から伸びた太腿が震えていた。混乱した永青に、小鳩は殆ど半裸に近い身体をくねらせ、切なげに白い息を吐いた。
「せん……せ、おれ……っ」
後ろ手に回された手首が異様な角度に曲がり、細い指が二本、後孔に挿入されていた。
「おれ、おれ……っ」
小鳩が寄りかかる重さで、壁がギシギシと音を立てていた。カタカタ鳴っているのは立てかけてあった湯桶のようで、寒さに震えながら自慰をする小鳩の鼻や頬、耳が朱く染まり、瞬時に南郷邸での出来事が蘇った。
「おれ……っ、こんな、だよ……っ。あんたの、いない、ところで……っ」
涙の滲んだ眸を伏せ、永青から視線を外すと、小鳩はあの時のように乱れた。ぐちゅぐちゅとかき回される孔は朱く腫れ、指を飲み込みながら、まだ物欲しそうだった。
「ぁ、ん……っ、と、届かな……っ、な、んで……っ、く、ぅ……っ」
凍りついた永青に、小鳩は半ば諦観を滲ませ、身体をくねらせ、指を出し挿れした。
「ん、んっ、ぁ、欲し……っ、奥……っ、と、届、てぇ……っ」
艶めかしく身体をくねらせた小鳩は全身で快楽を求めていた。永青は青ざめ、震える片手で顔を半分覆った。それでも、指の間から見てしまう。永青が自重していた裏で、小鳩がずっと不足に苦しみ、求めていたことにさえ気づかなかった、己の愚鈍と傲慢に愕然となった。
小鳩は見つかってしまったことへの開き直りもあるのか、涙をぱらぱらと流しながら腰を振り立てた。
「め、なさ……っ、ご、め……っ」
永青に謝りながら、それでも快楽を追うことをやめられない。
どころか、永青にねだり、おもねる。
南郷邸にいた頃にそっくりな小鳩が、そこにはいた。
「あっ、して……っ、せんせ……っ、先、生ぇ……っ」
刹那、永青の脳裏で何かが焼き切れ、視界が白く弾けた。
気づくと、背後に回された小鳩の手首を、骨が軋むほどの力で握りしめていた。
「痛っ……っ」
「っすまない、小鳩……っ」
ずるりと小鳩の体内にあった指を抜き取り、永青は目眩がするまま、深くため息をついた。今まで小鳩の何を見てきたのか、まったくわかっていなかった。
「おれ、こそ……ご、ごめ……」
手首を握られた小鳩は、恥ずかしそうに俯いた。掴む力を緩めたが、まだ痛みがあるはずなのに抵抗もしない。諾々と従う小鳩に、永青は獣性を意識し、胸がぐしゃぐしゃになった。
「謝るのは、俺の方だ。俺は、結局、きみを……」
永青の言葉に小鳩がつらそうにする。永青が離した手首を、小鳩はだらりと垂らすと、乾いた床板に手を付き、半分だけ振り返った。
「おれ、を……もらってくれる、って……、嬉しかったんだ……こんな、おれを……口説いて、一緒に、って言ってくれて……。方便でも、ちゃんとしなけりゃ、もったいないぐらい……」
「違う」
方便ではなかった。心からの言葉のつもりだった。だが、永青は小鳩をどうしたかったのだろう。自分の中に在る獣の情欲を握り潰すことに躍起になり、小鳩の願いも想いも置き去りにしていたのではないか。その事実が、永青の胸をぎりぎりと引っ掻いた。
「きみのことが好きだ」
永青が膝の上で拳をつくると、小鳩は掴まれていた方の手首を握り、完全に下を向いてしまった。
「いいんだ……おれ、結局あんたを、巻き込んでしまった」
「小鳩、聞いてくれ」
永青の言葉に息を呑む小鳩が、何を望んでいるかばかり気にしていた。永青の気持ちも想いも意志も、小鳩の前には些事だと押し殺していた。だが、そうではないのだ。
「俺は……もうきみの先生じゃない」
絞り出すように言うと、小鳩が息を呑んだ。
「だから……きみが好きだから、どうしていいか、わからなかったんだ」
自分の中に抑え込んだ欲望を、小鳩にぶつけずにいることだけに躍起だた。何が「君子サマ」だ。小鳩の苦しみに気づけなかったのは、永青が自分に嘘をついて、事実から目を逸らし続けていたからだ。
「きみを傷つけたくないと思う傍ら、欲望を覚える自分を、きみに晒すのが怖かった。だから、黙ってないものとして扱ってきた……俺の感情や欲望なんて、きみの前には些細な苦悩だ。そう言い聞かせて、忘れたつもりだった。だが結局、それがきみを傷つける……」
そんなことにも気づかないだなんて、ともに生きると啖呵を切った身として失格だった。
「せ、ん……」
「だから、正直に言う。きみが……こんな姿を晒すきみのことが、欲しい。俺と一緒に、堕ちてはくれないか。きみと一緒に生きるだけでは、俺は不満なんだ……本当は、心だけでは、不満なんだ。俺の心が、欲しいと訴え続けている」
「先……生?」
それでも先生と呼んでくれるのか、と永青は不甲斐なさに泣きたくなった。
「俺は……満州で酷いことをしてきた。きみにも酷いことをした。人生を選べなくなるような傷を付けた。俺みたいな人間に関わらせてしまったことを、どう、償おうかと……。だけど俺は、きみが欲しい……っ。きみの心だけじゃなく、全部が欲しい。俺をぶつけてしまいたい。これは俺の我が儘だ。だが、きっと……きみを、愛して……いる、のだと思う」
恥も外聞もなく、醜い実情を小鳩にぶつけた。傷が癒えない小鳩に、また同じことを繰り返すのかと心の奥で叫んでいる。生傷を抉られるような痛みだろう。傷口に塩をすり込まれるようなものだ。それでも、隠しておくことに意義があるとは、永青には思えなかった。
「きみを手放したくない……何があっても、きみが傷ついても、俺が傷ついても、傷が癒えないきみに残酷なことを強いることになっても、俺は……っ」
許してくれとはとても言えない。だが、許して欲しいと思ってしまっている。額付いた永青が蹲ると、小鳩は長い沈黙の末に、小さな声を出した。
「……条件が、ある……」
まるで何かに興奮した様子をひた隠しにする小鳩の声は、震えていた。
「何だ」
永青が頭を上げ、問いかけると、小鳩は、ごくりと唾を飲み込み、続ける。
「もし、おれがあんたより先に死んだら……初七日が過ぎたら、きれいさっぱり忘れてくれ。あんたがおれより先に逝くなら……その前に、どうかおれを殺して」
「小鳩……」
小鳩は泣き笑いのような表情で振り返った。
「独りは嫌だ。それに、先生がいいって、言っただろ?」
その眦が朱く染まっている。
「おれ……も、先生と生きたい。こんなおれでも、いい、なら……」
——もらってくれるか?
そう問うていた。
「先生のいない人生なんて、おれには選べないよ……駄目、かな?」
はにかみながら俯く小鳩へ、永青はそっと腕を伸ばした。その腕が抱きとめる。
「わかった」
数ヶ月ぶりの小鳩の身体は折れそうなほど細く、冷たく、頬だけが首筋に触れ、熱を持っていた。
「先に逝く時は、きみを殺して逝く。きみが先に逝った時は、初七日後に、……俺もきっと、死のう。俺を、捨ててくれるな、小鳩。人生が終わるまで、ともに……」
「ん……っ、ぁ、欲しい、永青さん……っ」
首元に小鳩の零した涙が落ちる。
初めて名前を呼ばれた永青は、嬉し泣きの声が滲むまま、両腕で小鳩をかき抱いた。
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