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第15話(2)

 ひたすらに狭い路地を走り抜ける。喉をからからにする粗い自分の息に混じって、悠希の名前を呼ぶ声がどんどんと近づいてくる。  一体、どうして――。  この短い時間に、何度も呪文のように頭の中で繰り返した台詞は、急に向こう脛に響いた痛みに遮られた。大きな音をたてて路地裏のアスファルトへと突っ伏す。ガラガラと聴こえるのは自分が倒したどこかの店の裏のごみ箱の音だろう。 「大丈夫か、藤岡」  後ろから悠希を追い掛けてきた人物が、やはり粗い息をしながら悠希に近づいてきた。 (ああ、だめだ。もうおしまいだ。まさか、この人に声をかけるなんて……)  はあはあと二人してその場で呼吸を調える。相手のほうが先に息が調ったのか、 「人に声を掛けておいて、顔を見ていきなり逃げるなんて酷くないか?」  まだ苦しい息の中で言われたことに悠希はびくりと肩を震わせた。黙って突っ伏したままの悠希の隣にその人物は跪いて、じっと自分に視線を向けているのが分かる。 「……おまえ、藤岡なんだろう?」  ここでこうしていても仕方が無い。悠希は覚悟を決めると、冷たいアスファルトから体を起こしてその場に座り込んだ。  路地裏には今にも消えそうな外灯が瞬いている。その薄い灯りの下で、その人物は悠希の顔を覗き込むと、 「やっぱりそうか。いつもと格好が違うから分からなかったよ」 と、驚きを隠さずに言った。悠希も自分の顔を覗き込む人物をちらりと見る。やっぱり間違いじゃない。  この人は紛れもない自分の上司――、各務課長だ。 「しかしおまえ、足が早いなあ。追いつけないかと思ったよ。こんなに走ったのは娘の幼稚園の運動会以来だ。アラフォーをあんまり走らせるなよ」  ははっ、と笑うとスーツが汚れるのもお構いなしに各務はその場に腰を下ろした。そのまま路地裏の暗がりの中、二人して座っていると、場を支配する沈黙を破ったのは各務だった。 「おまえもその……、あそこで相手を探していたのか?」  各務の問いかけに悠希はもう一度肩を震わせた。悠希のその様子が分かったのか、 「そんなに警戒しなくてもいい。俺だっておまえと同じ目的であの店にいたんだから」  あの店――。悠希が今夜、足を踏み入れたのはいわゆるハッテン場だ。  就職活動が無事に終わった頃、悠希は付き合っていた男に振られた。彼を女にあっさりと持っていかれたのだ。精神状態はボロボロだったが迫る卒論に全精力を注ぎ、それ以外の時間は全てバイトを入れて、虚しい心を無理矢理に埋めた。  今の会社に入って環境の変化の波を何とか泳ぎきり、失恋の痛みが薄れてきた頃、少し時間と心に余裕が出来たせいか急に人肌が恋しくなってしまった。

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