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第67話

 その日の夕方、日帰りの出張先からオフィスに戻ってきたのは後輩社員だけだった。 「部長は用事があるからと直接、ご自宅に帰られました」と、同行していた後輩社員は悠希に言った。  気持ちが落ち込む中で何とか残した作業をこなしていると、悠希のスマートフォンが机の上で小さく震えた。慌てて確認すると、各務からのメールが受信されていた。 『おまえに話したいことがある』 (俺だって各務部長に聞きたいことがある――)  悠希は急いで帰り支度をすると、まだ残業中の他の社員への挨拶もそこそこにオフィスを飛び出した。  向かったのは各務と待ち合わせに使うバーだ。少し息を弾ませて、いつものカウンターの席へと腰を落ち着けると、何も言わなくても悠希の好む甘めのカクテルが差し出された。  各務と一緒に初めてこの店に来てからどれくらいになるだろう。すっかり悠希も常連客の一人として扱われるようになっていた。  いつもは後から現れる各務との甘い逢瀬に想いを馳せながらゆっくりとアルコールを嗜むのに、今夜はチラチラと腕時計を確認して悠希は落ち着かなかった。せっかく差し出されたカクテルも、申し訳程度に唇を湿らせただけで、悠希は各務の来るのを今か今かと待ちわびた。  突然、カウンターテーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。この間隔はメールではない。悠希は発信先を確認すると急いでスマートフォンを耳にあてた。 「今、どちらにいらっしゃるんですか」  周囲に聞かれまいと小声で問いかける。するとしばらくの沈黙のあと、「ここに来てくれ」と、各務の小さな声がある場所を告げた。  初めて行くホテルのフロントを素通りして、教えられた部屋へと向かう。  いつものように何度か周囲を確認すると、悠希はドアの横の呼び鈴を押した。その軽やかな音が鳴り終わる前にガチャリとドアは開けられて、各務が部屋の中へと誘ってくれた。  迎えてくれた各務の表情がいつもと違うことに、悠希の胸がざわつく。いつもなら、少し皮肉めいた柔らかな笑みを湛えて悠希を抱き締めてくれるのに、今夜の各務はさっさと前を歩いて部屋の奥へと入ってしまった。  各務の態度に初めの勢いはどこに行ったのか、悠希は身の置き所が無く、その場に立ち尽くしてしまった。 「呼び出してすまなかったな」  各務は椅子代わりにベッドに腰かけると、サイドテーブルに放り投げていた煙草とライターを手に取った。悠希のほうには視線を向けず、取り出した煙草を火を点けると、小さく咳をして眉間に皺を寄せた。その各務の一連の行動を悠希は黙って見つめていた。 「そんなところに突っ立っていないで、おまえも座れ」  なぜか座る気になれない。悠希は鞄を持って各務を見下ろしたまま、動こうとしなかった。

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