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第68話
「……もう辞令は見ただろう?」
各務が苦笑いをしてやっと悠希の顔を見た。
「……そういうことだ。来月から向こうで頑張ってくれ」
「……納得がいきません」
悠希が掠れた声を絞り出す。
「どうして俺なんですか? なぜ、今になって、それも海外に異動なんて……」
各務が深く煙草を吸い込む。途端に苦し気にごほごほと噎せた。
「今までそんな話は少しも無かったのに。俺の異動は全て、各務部長が上手く処理してくれたのだと……」
「だから今回も上手く処理したよ」
各務の台詞が信じられない。つまり、各務は自分から悠希を異動させたと言ったのだ。
小さな咳を繰り返しながらも各務は煙草を吸い終わると、真新しい灰皿にそれを押しつけた。
「でも、どうして今なんですか? それもいきなり海外だなんて」
「今だからだ。おまえ、二十八だよな。ああ、もうすぐ二十九か」
各務が口の端に歪んだ笑いを張りつけた。
「うちの会社で出世しようとすれば、何度か外での経験が必要になる。同期の奴らを見てみろ。新人の頃から本社勤務でずっと燻っている、おまえの評価が今の時点で頭打ちなのが分からなかったか?」
各務の言い様に悠希は息を飲んだ。
「だから、おまえにもチャンスをやろうというんだ。本来なら妻帯者が適任なんだが、おまえにそれを求めることは到底無理だからな。それもサブリーダーと同等の位置だ。初めての海外赴任にしては、かなりのポジションを用意した……」
「俺は行きたくありません!」
自分の声が震えているのが分かる。悠希の叫びに口をつぐんだ各務が薄く悠希を見上げている。
「今度のプロジェクトはかなりの規模で四、五年は日本に帰れないと聞きました。そんなに長くあなたと離れるなんて、俺には耐えられない!」
各務はじっと悠希を見つめる。だが、その視線はとても無機質で、悠希は背筋が寒くなった。
「俺は部長の役には立っていませんか? 別に出世なんか望んでいません。俺はあなたの傍にいれればそれで……」
「……それが面倒臭いんだよ」
各務が苦々しく呟く。各務の口から出た言葉を、悠希は理解出来なかった。
「藤岡、何か勘違いしていないか?」
触れると凍りそうな冷気が各務から漏れだしている。
「もともと俺達は二人で秘密の共有をしているだけの間柄だったよな? それが今では、おまえは俺の恋人気取りだ」
急な各務の変心に、悠希は頭が付いていけない。
「愛だの恋だのと甘いことを言ってはいるが、俺は今まで少しもおまえのことをそんな目で見たことはない」
自分の頭から血の気の引く音がした。それは次第に大きくなって悠希の鼓膜の奥で騒ぎ立てる。
「はっきり言わせてもらうが俺はあのとき、おまえとは一度きりのつもりでいたんだ。それをおまえが俺を気にして目で追ったりするから、じゃあもう一回だけ、おまえを味わってみるかと思ったのさ」
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