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第70話

 黙ってしまった悠希に、各務はまた煙草に火を点けて吸い込みながら、 「今までおまえも良かっただろう? わざわざ寂しい度に抱いてくれる相手を見つけなくても済んだのだから。それにそろそろ飽きたんじゃないか?」 (飽きた?) 「……それは、俺の体に飽きたってことですか」 「そうだ。それ以外になにがあるんだ?」  ふぅ、と薄く吐き出した煙が各務の姿を霞ませる。こほ、と小さな咳だけが各務の存在を現した。それだけ悠希の眼に写る各務の輪郭が曖昧になってきていた。 「まあそういう事だ。おまえも新しい環境で再出発してみろ。五年後に帰ってきた時には、上手くいけば課長の椅子くらい用意してあるかもな」 「……その頃、あなたはどうなっているんです」 「俺か? さあな、もう、おまえが気にすることは無いだろうよ」  各務が煙草を灰皿に置いて立ち上がる。そして床に視線を落として立ち尽くす悠希の前へと近寄って、 「向こうに行けば現地の奴らがおまえを構ってくれるさ。おまえは、そういった奴らに好かれそうだからな。それとも日本人がいいのなら、現地に赴任している俺の同期を紹介してやるよ。奴も妻帯者だが結構なスキモノなんだ。きっとおまえを満足させてくれる」  その台詞の意味をやっと理解して、悠希は弾かれたように目の前の各務の顔を見た。蔑んだ嗤いを湛えたまま、各務の手が悠希の下顎に掛かって上向かせる。  嗤っているのに、何の感情も読み取れない視線を向けた各務が、ああ、と何かに気づいたように呟くと、 「最後におまえを抱いておくか。おまえも男漁りを再開するまで、一人でヌくのに鮮明に思い出すオカズがいるだろう? 」  急に部屋の灯りが落とされたように目の前が暗くなった。  ――ッ、バシンッ!  一時の間があって、自分の手のひらに拡がった衝撃で悠希は我に返った。暗かった視界に色が戻ると、そこには左の頬を痛そうに触る各務の姿があった。  各務が顔を顰めて悠希を見る。そのさまに悠希は自分が各務を平手で殴ったのだと分かった。  なぜか各務の眼は相変わらず温度がない。しかし、左頬から痛そうに撫でていた手を離すと、 「……初めて俺に歯向かったな」  ふっ、と笑いかけられた笑顔に悠希は背筋が凍った。各務が悠希に手を伸ばしてくる前に床に落とした鞄を拾うと、転びそうになりながら部屋から飛び出した。

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