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第71話
がむしゃらに暗い道を走っていく。自分がどこにいるのか分からなかったが、それでも振り返らずに狭い路地を駆け抜けた。
後ろから追ってくるかもしれない各務の影に怯えながら、路地の角を曲がった瞬間、悠希は何かに足を取られてアスファルトの上に倒れこんだ。
冷たくざらついたアスファルトに頬を擦られてハアハアと粗く呼吸を繰り返す。鼻腔の中に湿った埃の匂いが充満した。
そのままそこに突っ伏して悠希は耳をすませた。聴こえてくるのは大通りを走っている微かな車の音。そして時折、小さく酔っぱらったような人の笑い声。あの夜のように悠希を追いかける足音は聞こえてこなかった。
ゆっくりと頭をアスファルトから離して両手を地面についた。低い目線で周りを見渡すと、自分の鞄が少し先の暗がりに放り投げられているのが目に入った。腕に力を入れて立ち上がろうとしたとき、
――ぽたっ。
生暖かな水滴が、悠希の右手の甲に落ちた。その水滴を確認しようと焦点を合わせたが、なぜか視界はぼやけたままではっきりと捉えることができない。
それでも、その小さな雫はぽつりぽつりと落ちてきて、悠希の手やアスファルトに水玉模様を描き出した。
急に息が苦しくなる。鼻の奥が詰まって悠希は口を開けた。
「――、ふっ」
微かに声を発した瞬間、ぱたたっ、とさらに暖かな雫が滴り落ちた。それは俯く悠希の顎や鼻の頭を伝い落ちる。
「ふっ……、く、うぅ……」
胸が詰まって喉を締め付けるのに、嗚咽だけは口をついて溢れ出す。
(おまえは必要無いと言われた。おまえの体に飽きたのだと、自分の想いを、存在自体を否定された……)
最初から遊びだった。各務にとっては悠希はいつでも呼び出して欲望を吐き出すことのできる人形だったのだ。人形に感情など要らない。悠希が各務に抱かれる度に紡いだ心のうちは、各務にとっては戯れ言以下の言の葉……。
(結局、俺は彼らの一時の玩具だったのか……。初めに部長が昔の男達に対して憤ってくれたのも、ただの振りだったんだ……)
馬鹿にされた怒りと否定された哀しみが悠希の心から溢れ出す。それは両の瞳から涙となって滴り落ちていく。
「ぅ……うぅっ、……」
溢れ出す嗚咽を止める術もなく、アスファルトについた手のひらを握りしめると、その手の上に、ぱたっと冷たい雫が落ちてきた。それは次々と振り落ちて、やがてサアッと悠希の体を濡らしていった。
降りしきる雨の中、悠希は冷えていく体と心を両手で抱えて、いつまでもそこを動くことはなかった。
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