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第76話
「――ッ!」
録音された女性の声のアナウンスが車内に響く。悠希は思わず立ち上がると、口許を右手で押さえてデッキへと急いだ。薄いオレンジ色の照明が照らすデッキには、誰も出てくる様子がない。悠希はよろりと足が縺れて、閉まった自動ドアの横の壁にぶつかるように寄りかかった。
出入り口の扉の窓には見慣れた都会の灯りが映っている。それは雨に滲んで霞んで見えた。だが、一つ瞬きをすると少しクリアに見えて、そしてまた直ぐに滲んでいった。
ふと、自分の頬が温かく濡れているのが分かった。右手の甲で瞼を拭ってもなかなか治まる気配が無い。そのまま漏れ出しそうな嗚咽を右手で覆って、悠希は左手の中で鈍く光る液晶画面にもう一度視線を落とした。
――愛していた。
あれほど切望していた言葉がここに綴られている。
だけど、それはもう意味をなさない。彼はもう居ないのだ。どんなに会いたいと願っても、抱き締めて欲しいと望んでも、彼の幸せを祈っても……。
各務は悠希を置いて、この世界から去っていった。
(あの人は勝手だ。いつもいつもこうやって心を乱していく。俺を忘れるなと、おまえは俺のものなのだと。どんなに憎んでも、どんなに怨んでも、この三年間、一時だってあの人を忘れたことなど無かったのに――)
車内アナウンスが車掌の声に代わっている。
悠希は細かく呼吸を繰り返しながら、最期の各務の言葉を確認した。そこには――。
『悠希、いつか必ず逢いにいく』
両膝の力ががくんと抜けた。悠希は壁に背をつけてその場にずるずると座り込んだ。背中を丸めて携帯電話を抱えるように胸に押し当てる。
シュー、と静かに車両の扉が開いた。ホームからうるさい程の雑多な音が入ってくるのに、それは悠希の耳には届かなかった。
代わりに悠希の体を包んだのは湿った雨の微かな匂い。きつく綴じた瞼の裏に、各務の優しい笑顔が浮かんできた。
「――はっ」
悠希は天を仰ぐ。頬を伝う涙と嗚咽を止めることは、もう出来なかった。
――悠希、いつか必ず逢いにいく。
雨の匂いと共に瞼の裏の各務の声が鮮明に悠希の脳裡を駆け抜けた。
「……部長、……」
小さく呟いて悠希は瞼を薄く開けた。途端に各務の姿が見えなくなって悠希はまた、ぽろぽろと涙を溢しながら瞼をきつく綴じた。そして、右手でそれが二度と開かないように覆うと、締め付けられる喉から掠れた言葉を紡いだ。
「――、昭雄さん……っ」
この日、悠希は初めて各務の名前を呼んだ。
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