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第77話
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今日は夕方から雨になると言う。それでもまだ、雨雲が空を覆う様子はなく、眼下の景色には麗らかな春の陽気が漂っていた。
明日からは新入社員も入ってくる。外部に出ていた社員も戻り、逆に出ていく者もいる。悠希がリーダーを勤めるチームにも、明日から親会社の社員が出向してくることが決まっていた。
少し強い風に髪を乱されながら、悠希は手すりに寄り掛かって右手の中の小さな赤い電子機器を見つめていた。
ボタンを押すたびにそれはピッピッと小さな音をたてる。春の陽射しに反射して読みづらいはずなのに、悠希はその液晶画面に表示された文字を一つずつ丁寧に目で追った。
左手の飲みかけの缶コーヒーを口元へと持ってきたとき、「藤岡主任!」と、高い声が悠希の名前を呼んだ。
「やっぱりここにいたんですね」
屋上の入り口から悠希の元へと駆け寄ったのは、同じチームの女子社員だ。悠希は彼女の満面の笑みをぼんやりと瞳に写すと、携帯電話を折り畳んで上着の内ポケットへと仕舞った。
「伊東さん何か用?」
「何か用だから探してたんじゃないですか。課長が呼んでますよ」
悠希は今度は内ポケットからスマートフォンを取り出して、ああ、と納得したように呟いた。
「ごめん。着信に全然気がつかなかった」
まったくもう、と伊東は頬を膨らませると、悠希の横へと近づいて手すりに手をかけた。
「なんだか良い天気ですね。夕方から雨だなんて信じられないわ」
「……まあ、あくまで予報だから」
悠希は気の無い返事をすると、残った缶コーヒーを飲み干してその場を離れる。あ、と伊東が慌てて悠希の背中を追いかけると、不服そうな面持ちで隣を歩き出した。
「前から気になってたんですけれど、どうしてスマホがあるのにガラケーを持っているんですか?」
興味深く自分の顔を覗う伊東の顔を悠希は見下ろした。伊東は今のチームの悠希の部下だ。どうやら彼女の言動の端々には、悠希に対する好意が見え隠れする。
今も黙って歩く悠希からの答えを、伊東は期待に胸を膨らませて待っているようだ。なかなか返事をしない悠希に伊東が痺れを切らせたのか、
「なんだか通話に使っているようでも無いし、メール用なんですか? それとも、誰か特定の人との専用、とか?」
最後のほうは恐る恐るといった様子の伊東に、
「あれは俺の睡眠薬だよ」
えっ、と聞き返した伊東には応えずに、悠希は下りのエレベーターを呼び出した。
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