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第82話

(あれほど小さな音に敏感になっていたのに、背後に近寄られたことが分からなかった……)  しばらく無表情のままで悠希を見つめていた彰吾は、ふっと微笑みを浮かべると悠希を追い越して部屋の奥へと入っていった。そして部屋の入り口で立ち止まったままの悠希に、 「上着を貸してください。濡れたままでは風邪を引いてしまいます」  腕をこちらに伸ばす彰吾の顔を見つめたまま、悠希は微動だにしない。いつまでも動こうとはしない悠希に彰吾は諦めたような苦笑を浮かべると、どかりとベッドに腰をかけた。 「立ち話もなんですから、そちらのソファに掛けてください」  サイドテーブルに置いてある煙草とライターを手にとって、彰吾がそれを咥えて火を灯した。ふぅ、と細く吹き出された煙から、悠希が好きだった香りが流れてきた。  各務と同じ銘柄の煙草を吸う人は沢山いる。だけど、どの香りもただの煙りにしか感じなかった。なのになぜ、彰吾が燻らせるこの香りはこんなにも胸を締めつけるのだろう。  涙腺が緩みそうになるのを堪えて、悠希はそろそろと窓際へ近づくと鞄を窓の下の壁際に置いて浅くソファに腰かけた。そんな悠希の行動をじっと目で追っていた彰吾が、 「なにか飲みますか? それともルームサービスでも頼みましょうか?」 「いや、要らない……」  悠希の返事を承けて彰吾は立ち上がると、備え付けの冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出した。  そのまま悠希の座るテーブルの上に一本を置くと、またベッドに座って自分の分を飲み始める。彰吾の姿は各務を彷彿とさせて、悠希はまともに彼の顔を視ることが出来なかった。  喉を鳴らしてビールで渇きを潤した彰吾が、タンッとサイドテーブルに缶を置くと、 「改めまして。今夜は来てくれてありがとうございます」 と、軽く頭を下げた。悠希は戸惑い気味に一つ頷いて、 「いったい、これはどういう……」 「そうですね。まずは先にあなたの質問にお答えします」  ――聞きたいことは沢山あるが……。 「彰吾、くん、だよね?」  悠希の間の抜けた質問に彰吾が笑って頷く。 「どうして名字が各務じゃないんだ?」  彰吾が半分まで短くなった煙草を吸って、灰皿に押しつけた。そして煙りと共に、 「別れたんです、うちの両親は。俺は妹と母方に引き取られて各務の姓は捨てたんです」 「部長は離婚されていたのか。いつ?」 「俺が高校の頃に」

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