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第86話

 彰吾から流れてくるのは自分の両親への嘲りだ。悠希も東京へ出てきてからは、郷里の親へ連絡を取ることもめっきりと減ったが、こんな想いを両親に抱いたことはなかった。 「母は父に、浮気相手がいると結婚当初から疑っていたようです。長く心の奥に折り重なった疑念は膨れていくばかりでした。あの頃、家庭内で父と母は別居状態でしたが、母の父に対する執着は子供心にも恐ろしく感じました。父が今までに参加したことのなかった社員旅行に行くと伝え聞いて、母は疑念を持ったんでしょう。きっと会社に浮気相手がいるのだと。だからと言って、まだガキだった息子の俺にそれを探れと命令するなんて、あの頃から母はもう冷静な心を持っていなかったんです」  ふう、と彰吾がため息をつく。悠希はテーブルの上で汗をかいている缶ビールには目もくれず、彼の話を聞いていた。 「俺が旅行の前日に体調を崩していても、母はお構いなしでした。そして帰ってくるとしつこく相手の女のことを聞き出そうとしました。俺がいくら、そんな女は居なかった、父さんは浮気をしていない、と言っても嘘をつくなと罵られて。挙句の果てに、おまえは使い物にならない、あの男を庇うのならおまえは必要ない、と俺の存在さえ全否定されました。だから、嫉妬と疑念に狂っていく母を見るに見かねた祖父によって、二人がやっと離婚を決めたとき、俺は正直、ほっとしましたよ。もうこれで、両親が繰り広げる下らない男女関係に煩わされなくていい、そして、父の顔も見なくて済むと」 「でも……、きみの話だとお母さんよりも部長と一緒にいたほうが良かったんじゃないか? なぜ、母方について行ったんだ?」  各務の離婚が決まった頃に高校生ならば、両親のどちらについて行くのか選択も出来ただろう。 「罷りなりにも母の家は資産家でしたし、金銭の苦労はしないだろうと考えました。それに妹が俺と離れるのを不安がったのもあった。でも一番は……。父の、俺を牽制するような態度から逃げたかったのもあります」 「……牽制?」  彰吾は一つ頷くとゆっくりとベッドから立ち上がった。部屋を照らしていた照明が彰吾の背中に隠れて、悠希の視界を頼りなく暗くした。 「最期に父を見舞ったときのことです。おまえに遺言があると急に父が言い出しました。そして、肌身離さず持っていたあの赤い携帯電話を俺に手渡すと」  ――彰吾、俺が死んだらこれを藤岡に手渡して欲しい。  ――これには俺から藤岡への謝罪が入っている。俺は彼を傷つけた。だから、俺の最後の言葉をあいつに届けて欲しい。 「俺は断りました。謝りたいのなら実際にあなたを前にして直に謝れと言いました。よく、そんなことを俺に頼めるなとも。すると、病で痩せて骨と皮ばかりになっていたのに、父は強く俺の腕を掴んでさらにこう言ったんです」

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