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第87話

 ――おまえにだから頼んでいる。  ――こんなことを頼めるのは……。俺と同じ想いを持つおまえだけしかいないんだ。 「……それから俺はあの携帯電話を預かって二度と父の元へ行くことはありませんでした。何度か危篤状態になってホスピスから連絡が入っても……。もうすぐ父の命が無くなることが分かっていても、その呼び出しを無視しました。そして、父方の祖父からの連絡で、父が誰にも看取られずに息を引き取ったことを知りました」 (俺があの人のメールから読み取った孤独は、こういうことだったのか……)  悠希は思わず下唇を噛んで俯いた。この一年、何度も読み返した短い文章の数々。最初は悲しく腹ただしく憎いものだったが、そのうち、その文字の中に隠された各務の想いを読み取れるようになっていた。  それは悠希の知る各務ではない、本当の各務昭雄の姿……。  落とした視線の先がさらに暗くなって悠希は顔をあげた。そこにはいつの間に近寄ってきたのか、彰吾が覆うように悠希を見下ろしていた。その彰吾の表情が窺い知れなくて悠希は小さく身震いをした。 「悠希さん、俺はね」  彰吾が今夜会ってから、初めて悠希の名を呼んだ。その抑揚のない声に胸がざわめく。悠希は思わず、震える足でソファから立ち上がった。 「母に嘘をつきました。いや、嘘じゃないか。だって、浮気相手の『女』は、いなかったのだから」 「彰……吾、くん?」  ずいっと彰吾が一歩、間合いを詰めてくる。あの頃、自分を見上げていた少年は、今では父親と生き写しの姿で自分を見下ろしている。  そう、その瞳の奥に……。あの人と同じ灼けるような熱を宿して。  急に背筋が戦慄いた。逃げ場を探すように視線を忙しなく動かす。背後には雨が叩きつける大きな窓だ。彰吾の脇をすり抜けて、広い室内の空間へと進めば、この言い知れぬ恐怖から逃れられる。なのに悠希の足は一歩後ろへ下がってしまった。  さらに詰め寄ってきた彰吾を避けようと体を逸らすと、冷たい窓に背中が付いてしまった。  雨に滲んだ夜景が目の端に写りこんだところで、ダンッと彰吾の左手が悠希の右頬を掠めて窓へと突き出された。驚きに大きく目を見開いて仰いだ悠希に、吐息が掛かるほどの距離に近づいた彰吾は、 「父からはもう一つ遺言がありました」 「もう一つ?」 「『俺が死んだあとは俺に代わって、おまえが藤岡を愛してやれ』、と」 「な、……んだ、って……?」  彰吾の台詞を脳が理解するのに時間が掛かった。その間に彰吾はゆっくりと唇を引き上げると、 「本当にあの男は俺達を馬鹿にしている。何が『おまえを愛していた』だ。何が『おまえが愛してやれ』だ。生きているうちにそんな言葉も吐けなかった臆病者が、なぜ俺にそんな指図をする!?」  彰吾の内に秘めた怒りがピリピリと悠希の頬を刺す。燃える瞳で瞳を覗かれて、悠希は視線を外すことも出来ない。彰吾の右手が素早く伸びてくると、肩をすくませた悠希の下顎を掴んだ。

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