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第107話

 この短い文章に、あのときの自分は飛び上がらんばかりに胸が高鳴ったのを覚えている。今だってそうだ。あの大人しく控えめな彼が自分を受け入れてくれたのだ。ただ、性的嗜好が同じだからというわけではない、何か誰にも打ち明けられない秘めた想いを軽く出来たような安堵感もあった。  月明かりの下で立ち尽くす彼の後ろ姿。  もう気持ちは急くばかりだ。今の自分の姿がどんなに惨めでも面変わりしていてもいい。後悔と絶望と深い恋情だけが体中を駆け巡る。ただ彼に触れたい。彼の笑顔を見たい……。  空には輝く月が見えるのに、耳鳴りのような雨の音。遠く雷鳴まで響いてくる。そうだ、もうすぐ雨になる。愛しいひとが濡れてしまう……。  彼の言葉を表示する液晶画面を握り締める手。指先でさえ痩せてしまって骨ばかりだと思っていたのに、それは節のしっかりした指だった。点滴の針を腕に刺すことも困難になって、手の甲へと薬液を入れるようにしていたのに、いつの間にかテープで固定されていた針は無くなっている。  着ていたのは確かパジャマにカーディガンだ。でも、今、この体を纏うのは気に入っていた薄いピンクのシャツとチャコールグレーのスーツ。そしてやはりお気に入りだったネクタイを締めていた。 (どうして、こんな格好を? ……でも、こんな違和感は今はどうでもいい)  足早に彼の背中に近づいていく。襟足から覗くうつ向いたうなじが月の光を浴びてさらに白く浮かんでいる。  もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ……。  秋深い夜の空気を透して、彼の体温が感じられるまでにその背中に近寄ると足を止めた。彼は懸命にその手の中の液晶画面に見入っている。すぐ後ろに自分が居ることも気がつかずに。 (上手く声が出せるか?)  もう息をするのも億劫だったのだ。上手く彼の名前を呼べるだろうか。渇く喉を湿らせるようにコクンと唾を呑み込んだ。何度か心の中で彼の名前を唱えてみる。低く、優しく、落ち着いて、そして――。 「……藤岡」  瞬間、目の前の彼の肩が大きく動いた。きっと聴こえたのだ。かけた声は少し震えて掠れていたけれど。でも彼はなぜか振り返ってくれない。今度はもう少し、腹に力を入れて呼んでみる。 「藤岡」  俯いていた彼の頭が大きく跳ね上がる。そして何度か声の主を捜すように左右へと視線を動かすと、やがて彼はゆっくりと後ろに振り返った。

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