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第108話

*****  自分は今、上手く笑顔を浮かべているのだろうか?  目の前の悠希は月明かりにその顔を晒して、大きく目を見開いていた。一時の沈黙がふたりを包む。相変わらず、耳には雨と雷鳴の音が微かに聴こえていた。  そう、もうすぐここも雨が降る――。  だが、どうしたことだろう。いつも持ち歩いている鞄も、その中に忍ばせている折り畳みの傘も持っていない。あるのは右手に握りしめた赤い携帯電話だけ。これではふたりとも雨に濡れてしまう。 「藤岡、おまえに伝えたいことが沢山あるんだ。だけどその前に雨宿りをしないと」  驚いたままの悠希にそう言ってはみたが、どうやって雨を避ければいいのだろう。それに唐突に雨が降るなどと言って不思議がられはしないだろうか。  呼びかけても悠希はこちらの顔をじっと見つめて微動だにしない。その瞳には月の光のもとに立つ自分の顔が写っている。その顔は今とは違う、病に倒れる前の悠希と出逢った頃の精悍な顔だった。 (なぜ黙っているんだ……)  水面に墨を落としたような不安が胸に拡がる。 (もしかしたら俺を忘れてしまったのか?)  忘れ去られても仕方がない。酷い言葉で悠希の心を深く傷つけた。悠希は二度と自分の顔など見たくは無かったかもしれない。こうして声をかけられるのでさえ、迷惑どころか嫌悪を持っているかもしれない……。 (どんな罵りの台詞でもいい。何かひとこと、声を聴かせてくれ……)  激しい動悸に堪えられず、もう一度、悠希の名前を呼ぼうとしたときだった。  じっと見上げていた悠希の表情がゆっくりと変化していく。その顔は怒りでも哀しみでもない。ただひたすらに、穏やかで優しい笑顔――。  その悠希の浮かべた表情に、胸がきつく締めつけられる。鼻腔の奥が熱くなって、その熱が目頭へと伝わった。潤んできた視線の先の悠希の頬に、すぅ、と透明な雫が一筋流れていく。  悠希は薄く引き上げていた唇を震わせて、微かにこう言った。 「……昭雄(あきお)さん、逢いたかった……」

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