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第109話
悠希はゆっくりと体を傾けて胸の中に額を寄せた。その彼の体をしっかりと抱き止める。廻した両腕には確かに悠希の体が形を成していた。
雨の香りが微かに悠希から立ち上っている。でもそれよりも今はこの暖かな存在を感じていたい。
悠希がそっと自分の背中に両手を這わせた。きゅっと力を入れられると、それに応えるように強く抱きしめ返す。その締めつけが心地良いのか、腕の中の悠希がもう一度、「昭雄さん」と名を呼んでくれた。
「すまない。本当に……」
切なさに喉を締めつけられて言葉が続けられない。それでも何度も、すまない、と謝り続けた。
「そんなに謝らないでください」
柔らかな彼の声が優しく耳の奥に滑り込んでくる。ああ、彼のこの声をどんなに恋焦がれたか。
「俺はおまえに酷いことをした。憎まれても恨まれても仕方のないことを……。なのに、こうしてのうのうとおまえに会いにきている」
最期にどうしても、おまえに逢いたかったんだ――。
悠希の髪に頬を押し当てて、震える声で呟いた。すると、悠希はなぜか、ふふっと笑って、
「どうして俺が昭雄さんを憎まないといけないんです? それに最期だなんて、ここには終わりはないんですよ」
急にぐらりと眩暈がした。ぐるぐると廻る視界に瞼をきつく閉じて、悠希にしがみつく。抱きしめていた悠希の体から一瞬、強く雨の匂いが香ると、次第にそれは優しく甘い香りに変化していった。
徐々に眩暈が治まってゆっくりと瞼を開けた。開いた瞳に飛び込んできた光景に大きく目を見開いた。
そこは濃紺の天上に無数の星が煌めき、その中心に見たこともない大きな満月が光の輪を幾重にも放って地上を照らしていた。足元に広がるのは何も遮るものの無い遥かに続く草原で、月の光を浴びて白い花がいっぱいに咲き乱れている。さあ、と涼しい風が頬を撫で、今まで見えていた不夜城のようなビルの群れは跡形もなく無くなっていた。
その光景に悠希を抱きしめていた腕を弛めて、辺りを見渡した。初めて目にした風景。いや、近いものがあるとすれば、遠い昔に彼と行った冬の北海道の真っ白な雪原か。
でもここは肌を切られるような寒さはない。頬を掠める風はひたすらに優しく、そして心地好かった。
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