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第110話

 ぐるりと見渡した視線をまた悠希の顔へと戻した。彼は包み込むような微笑みを湛えたままで自分を見つめている。その頬を恐る恐る指先で触れてみた。柔らかく暖かな感触は、確かに彼が目の前に存在することを示していた。 (いや、これは現実ではない)  その証拠に明るい月の光がこの身にそそぐのに、相変わらず鼓膜を震わせる雨の音がする。雷鳴と共に鳴り響く音は止むどころか段々と大きくなって、我慢ができなくなってきた。  悠希の唇が小さく開いて何かを紡いでいる。でも、その声を捉えることができない。 「おまえの声が聴きたいのに雨の音がうるさくて仕方が無いんだ。それに雷の音も」  ふと、微笑んでいた悠希の表情が微かに曇ったような気がした。彼はしばらく瞳を合わせたあと、すっと右手をあげると遠くを指して、 「……あなたはまだ、あそこにいるんですね……」  彼の白い指が差す方へと顔を向ける。満天の星空と白い花の咲く草原が続く遥か向こうの空が、時折微かに明るく光っていた。 (あれは……、雷鳴か……)  稲妻が細く走るたびに厚い雲の重なりが顕になる。ひと呼吸おいて空気を伝うはずの鈍い音は、あまりに距離があるからかここまで響いてこない。なのに鼓膜の奥深くでは、はっきりと雨空の叫びが捉えられた。 「一体ここはどこなんだ」  悠希に視線を戻して、その姿に驚いた。彼が纏った白いシャツはいつの間にかぐっしょりと濡れそぼり、張りついた薄布から彼の肌の色が透けて見えていた。なぜだ? ここは今、雨雲ひとつない月が輝く星空の下なのに。  悠希は寂しそうに頬笑みかけてくる。なぜ? どうしてそんなに哀しい顔をする? 「藤岡……」  彼へと手を伸ばす。その手に悠希はやんわりと手のひらを重ねてきて、自ら、柔らかい頬に押し当てた。 (ああ、なんて温かいんだ……)  雨に濡れ、しっとりと吸いつく悠希の肌を手のひらに感じながら、また彼の体を抱き締めようとしたとき、 「あなたの手のひらはとても冷たい」  伏せた長い睫毛の下の瞳から、ぽつりと雨で濡れたのではない透明な雫がこぼれ落ちた。それは次々と彼のすべらかな頬に伝い落ちて、押し当てた手のひらも濡らしていった。

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