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第111話

(――泣くな)  ひとこと、そう言いたかった。なのに急に胸が熱く締めつけられて言葉が出ない。いや、それどころか段々と息苦しくなり、大きく肩を上下しないと空気が取り込めなくなっていた。  暗い空には大きな満月。足元はどこまでも続く白い花の群れ。風が優しく吹き抜けるこの世界に、耳を塞ぎたくなるほどの雨と雷鳴の音……。  とうとう苦しさのあまり、悠希の頬に触れていた手を引いて自分の胸を押さえた。はあはあ、と大きく口をあけて何度も背中で呼吸をしようと試みる。しかし、空気どころかまるで深い海に落とされたように冷たい水が肺の中に充たされる感覚がした。 (このままでは、雨に溺れる……)  大きく喘ぎ、胸を叩き、喉をかきむしる。視界が滲んできたのは苦しみに泣いているからだろうか。それとも本当に深い海の底へと沈んでいるからだろうか。  滲む先には哀しそうな彼の姿。夢に見るほどに恋い焦がれた、愛おしい人の泣き顔……。 (ああ、藤岡……)  彼の名を呼ぼうと開いた口から、ごぼりと粘つく咳がでる。それでも彼に触れようと伸ばした手は所々に死斑が浮かんだ土気色で、指先の肉でさえ削げ落ちていた。  ――そうだ。これが本当の自分の姿。  急に全身に抗えない重力を感じた。膝から崩れ落ち、体を覆うどうしようもない脱力感に両の瞼さえ開けていられなくなる。それでも、最後に彼の姿をその目に留めようと眼を開く。例えそれが、自分の都合の良い幻想を脳が造り出した姿であっても。  霞む視線の先の彼が微かに笑った。涙に濡れた頬を拭いもせず、彼は静かに笑みをたたえて、崩れ落ちていく自分を見つめている。 (体が、溶ける……)  夜空と大地の境い目がわからない。もう自分の輪郭さえ曖昧だ。暖かな風の中に溶け落ちて霧散していく……。 「昭雄さん」  目に捉えられなくなった彼が小さく自分に語りかけた。そして、ひと言、 「――あなたはまだ、そこにいてください」

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