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第112話
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人の話し声と何かが閉まる音で、各務昭雄 は意識を取り戻した。濁った視界が少しずつはっきりとしてくるのと同時に部屋の中を歩く人物の姿を捉えた。
「あ、親父、起きたのか」
これは息子の彰吾 だ。彰吾は、ありがとうございました、と部屋から出ていく看護師に挨拶をした。
「……来ていた、のか……」
ざらついた声で彰吾に訊ねる。鼻に差し込んだ管から絶えず新鮮な空気が送り込まれているのに、そのほとんどをもう肺の中に取り込むことが出来ない。それでも浅い呼吸を使って何とか話をしようと試みた。
「ちょうど午後から休みが取れたんだ。じいさんが俺に話があるって言うから都合をつけて来た」
(俺の葬式の段取りの話か)
各務は彰吾に気付かれないように小さく苦笑いをした。自分の体のことは本人が誰よりもわかっている。全身を蝕む癌が、もう自分の命を喰い尽くそうとしていることなど、第三者に宣告されなくとも。
「それよりも親父、また窓を開けたまま寝てしまっただろう?」
彰吾が呆れたように言う。
「いくら海が見たいからって、この寒いのに窓を開けたままだと体に堪えるよ。それに酷く雨が降ったから、俺がここに来たときは窓辺に吹き込んで床が水浸しだった」
「雨が……、降った、のか……?」
「もう小雨だけどね。俺が駅に着いたときは雷も酷くて大変だった」
(あの鼓膜を揺らし続けた雨の音はこの世界のものだったのか)
やはりあの彼の姿は夢の中の幻だったのだと、ひとつ息をついた。各務はベッド脇の置時計を確認する。時計の針は面会時間が終わる少し前を差していた。
「……仕事は、大丈夫、なのか?」
「先週末までは忙しかったけれど、でも明日は代休を取れたから、今夜はじいさんのところに泊まって、明日東京に戻るよ。明日、戻る前にもう一度、ここに寄るから必要なものがあれば言って」
彰吾は春に東京の大学を卒業し社会人の仲間入りをしたばかりだ。きっと有給休暇もあまり無いだろうに、こうして長い移動時間をかけて各務がいるホスピスに足を運んでくれている。
「……母さんや、ミサトは、元気……、か?」
「俺も家には戻れていないけれど、母さんは相変わらず近所の奥さんたちと出掛けてるみたいだね。ミサトは高校卒業したら東京で声優の専門学校に行きたいって俺に相談してきた。まあ、俺のところに転がり込む気がありありだから話半分で聞いてやったけれど」
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