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第114話

 彰吾が少年の頃に出逢った悠希に仄かな想いを寄せていたのは知っている。そしてその想いを今も持ち続けていることだってわかっている。その時、黙って父の携帯電話を受け取り、命じられた通りに各務と悠希以外の不要なやり取りを削除していった彰吾の気持ちはどうだったのか。  時折、携帯電話の文面に釘付けになりながらも淡々と作業を行う彰吾と、その横顔をベッドに横たわり眺めていた自分が居た病室は、親子という立場ではなく、悠希を想い合う二人の男の静かな意地の張り合いの場だった。  でも、それももう終わりだ。あとは全て彰吾に託そう。悠希に伝えたい最期の想いはすでにこの赤い携帯電話に入れてある。この携帯電話を彰吾に託し、息子への感謝の言葉を伝えたら、この世界にこれ以上留まる必要はない。 「親父? 苦しいのか?」  ふう、と霞む吐息をついた各務に彰吾が心配そうに問いかける。彰吾のほうへ視線を向けるとそこには昔の自分によく似た顔があった。各務は彰吾から視線を離して、また窓の外を見る。小雨だった外はまた雨足が強くなってきたようだ。閉めた窓の向こう側から小さく雨音が響き始めていた。 「……コーヒーが、飲みたい……」  ああ、と彰吾が財布を手に椅子から立ち上がる。いつものやつ? と聞いてきた息子にひとつ頷くと各務は、 「それと、戻ってきたら、おまえに……、伝えたいことが、ある」  彰吾はベッドに力なく凭れる父親の顔をじっと見たあと、病室を出て行った。各務はその広い背中を見送ると、手の中の携帯電話の形をなぞるように震える指先を這わせた。 (こんな願いを彰吾に伝えたら、きっと叱られてしまうだろう)  それでも、ひとり孤独に沈む悠希を救うには、こうするしかない。これがふたりにしてやれる、自分が生きてきた証だ。 (目を閉じたら、またあの不思議な景色を見られるだろうか……)  各務は静かに瞼を閉じた。そうすればもう一度、彼に会えるような気がしたからだ。しばらく瞼を閉じていたが、やはりいつまでたっても、あの満月の輝く草原を臨むことはできなかった。やがて、彰吾が帰ってきた気配を感じて各務はゆっくりと目を開くと、ぼんやりと雨の降る暗い窓を眺めた。  ――雨の夜に月は見えない。  しかし、厚い雨雲の向こう側に、それははっきりと存在している。  近いうちに自分は必ずあの白い花で埋め尽くされた草原に立つだろう。そして、大きな満月の下でただひとり、目を閉じて優しい風を感じながら愛しい人が来るのを待つのだ。次に瞳を開いた時には優しく微笑む彼の姿があることを望みながら。  各務は戻ってきた彰吾に手の中の赤い携帯電話を差し出した。そして、怪訝そうにそれを受け取った息子に、最期の願いを口にした――。 【雨夜の月 ー完ー】

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