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第5話 時臣③

ーー ザー・・ザー・・ 屋根にあたる雨音が小屋全体に響きわたる。 時臣はその音でゆっくりと瞼を開いた。 いつの間にか座ったまま居眠りをしてしまっていたらしい。 「うぅん〜」と声を出しながら両手を上げて曲がった背骨を伸ばす。 「雨・・・」 雨音に耳を傾けながら、まだはっきりとはしない思考で時臣は今の状況を考えた。 「えっ・・!」 それからハッと気がつくと急いで小屋の扉を開けた。 外は雨雲が覆い尽くしているからか薄暗く、真っ黒な空から大粒の雨が音を立てて降り注いでいる。 「今日雨が降るなんて天気予報では言ってなかったのに・・」 栄二はもう家に着いているだろうか?空を眺めながらふと考える。 薄暗いせいで今が何時なのかもはっきりしない。 「どれくらい寝てたのかな・・」 そう呟きながら一歩外へ出ると、バシャンと水溜りの中に片足を突っ込んだ。 「うわっ!!」 驚いて濡れた足を慌てて上げる。 水溜りは大きく、水の量もかなり溜まってきている。 どうやら雨は数分前に降り始めたというわけではなさそうだ。 「・・濡れて帰るしかないなぁ・・」 そう呟きながら床に置いてあった鞄を手に取ると、そこからヒラリと一枚のハンカチが落ちた。 「これ・・栄二の」 時臣はハンカチを拾いながら、このハンカチの用途を思い出す。 「あっ!猫・・!」 再び外を見る。 土砂降りの雨だ。 あの猫は大丈夫だろうか・・ 黒色で細身の綺麗な猫・・・ 「・・・一応、様子を見に行くだけ・・・」 時臣は栄二のハンカチを鞄に押し込むと勢いよく外へと駆け出した。 先程猫を見かけた崖までは走れば三分ほどで着く。 それでも一歩外に出ただけで、時臣の体はグッショリと濡れて制服は重くぴたりと身体に張り付いた。 今が夏でよかった・・そう思いながら時臣は急いだ。 時臣達の通う高校は坂を少し登ったところにある。 学校までの道は舗装されてはいるが、横を見れば斜面沿いにまだ木が生い茂っているところも少なくない。 「はぁ・・はぁ・・猫、いるかな・・・」 荒い息遣いを整えながら、時臣はキョロキョロとあたりを見渡した。 木々の間から雨水が流れおちてくる。 地面の土もぬかるんでいるが、時臣はかまわず先程猫がいた辺りを木の間を抜けて入って行った。 とても綺麗な猫だった。 野良の雰囲気ではないし、こんな所で暮らしているとも思えない。 「逃げ出した飼い猫が迷子になっちゃったんじゃ・・」 だったらきっと飼い主も心配してるに違いない。 もう一度見つけて帰してあげたい。 その思いで、時臣はドンドンと斜面を登って行った。 ガサっと小さな物音がして、時臣はハッとして後ろを振り返る。 そこには凛とした佇まいの猫がこちらを見つめてたっていた。 「あっ・・!」 時臣は思わず大きな声を上げる。 「よかった〜!!見つかった〜!ねっ、ここは危ないから一緒においで?」 そう言って時臣は手を差し出した。 猫は鳴くこともせず、ジッと時臣の様子をうかがっている。 「さっきは怖がらせてごめんね?俺猫飼ったことないから抱っこの仕方わからなくて・・でもとにかくここは危ないから、下まで行こう?」 言葉が通じているとは思わなかったが、それでも怖がらせないようにと時臣は笑顔で話しかける。 「ねっ?おいで、おいで!」 猫はしばしの間黙ったまま時臣を見つめていたが、クルリと向きを変えると反対の方向へ歩き始めた。 「あっ・・・」 このままではまた見失ってしまう。追いかけて無理やりにでも抱っこして連れて行った方がいいのだろうか。 時臣が迷った瞬間だった。 嫌な振動が身体に響いた。 そしてその次には足を取られるように体が地面ごと下に引っ張られた。 「ぅうわぁっ!?」 時臣はバランスを崩し、バシャンと土砂の中に体を打ちつけつけるように倒れ込む。 まずい・・!大きな崖崩れでは無さそうだが、確実にこの辺りの地面が雨水で緩くなっている。これがもっと上の方で崩れたら大変なことになる・・! 時臣はドロドロになった身体で起き上がると、猫が歩いて行った方向へと足を取られながらも駆けていく。 すると目の前を尻尾をピンと立たせて歩く猫の後ろ姿が目に入った。 時臣は両手を広げると飛びつくようにして猫を後ろから抱え込んで叫んだ。 「待って!ねぇ!危ないから一緒に・・!」 その時だった。 再び足元が地面に引っ張られるようにして下へと流される。 「あっ・・」 バランスを崩して倒れそうになるが両手は猫を抱えているので使えない。なんとか足で踏ん張ろうとしたが、流される土砂の重みに両足が耐えられず時臣はそのまま頭から倒れ込んだ。 ーーー どれくらいたっただろう。 なんだか目の前が真っ白だ。 体はフワフワとしている。夢を見ているのだろうか。 ニャー・・ーー 猫の鳴き声・・そうだ、あの猫は大丈夫だろうか。 時臣がそう思って横を見ると、先ほどの黒猫がこちらをジッと見つめていた。 「あっ・・大丈夫?」 時臣がそう言って身体を起こす。 すると黒猫はニャーと鳴いた後こう言った。 『だいじょうぶ・・』 「っ!!?えっ!?」 時臣は目を丸くして驚いた。 「い、今、喋った・・・?」 猫はコクンと頷くと再び口を開いた。 『あなたはいったいなにをしにきたの?』 「・・へっ?」 『なぜ、あんな大雨の中あの場所に来たの?私に何の用だったの?』 「何でって・・君を助けにだよ?」 時臣は答えながらも、やっぱりこれは夢なのだと思った。今自分は夢を見ている。だからこの猫とも会話ができるに違いない。 『助ける?なにから?』 「あそこは大雨が降ったら危ないんだよ。もし君が巻き込まれたら君も怪我だけじゃすまないかもしれないし、飼い主さんも悲しむ・・」 『・・・大丈夫よ。私は死なないもの。それに飼い主もいないわ』 「えっ!?死なない生き物なんていないよ?!そんなこと言って命を軽くみたらダメだよ!?」 『・・命を軽くみてなんていないわ。ただ事実を言ったの。でも、そう・・やっぱり普通の生き物は大変ね・・・』 「え・・・」 『あなた、頭を打ってる。倒れた時強く打ち付けたのね。急がないと、手遅れになる・・』 「・・・」 『大丈夫。助けてあげる』 猫はピンと尻尾を立てながら時臣に擦り寄った。 『命が軽くないって言うなら、あなたの命も大切にしないとね』 猫は小さな舌でペロリと時臣の頬を舐める。 「っ!?」 その瞬間、心臓がドクリと音を立てた。体の芯が熱い。 『心配しないで。わざわざ私を助けようとしてくれたのだもの。お礼に力を少し分けてあげるだけ』 「・・力?」 『そう、いつまでも変わらず。若々しくいられる力。病気も怪我も怖くない・・素敵でしょ?』 猫は綺麗な紫の瞳を輝かせながら首を傾げる。その妖美な雰囲気に時臣は顔を強張らせた。 「・・君は、一体何なの?」 時臣は絞り出すように声を発する。 『わからない。神様って言われる時もあれば、怪物だって言われる時もある。どう思うかは自由だから。あなたにとって、私は何になるかしら?』 「・・俺は・・・・っ!?」 言葉を続けようとしたその時、再び目の前が真っ白になり時臣は思わず目を閉じた。 眩しい・・でも・・ またあの猫を見失う・・・!! 「・・・!!」 「っ!時臣!!」 慌てて瞳を開けた時臣の目に飛び込んできたのは、青白い顔をした栄二の姿だった。 「・・えい、じ?」 「時臣!大丈夫か?!俺のことわかるか?!」 「・・ここは・・・」 「病院だよ。あの崖の近くで倒れてる時臣を見つけて運んできたんだ・・」 病院・・たしかにかすかに薬品のような匂いがする。 時臣は腕に力を込めると、身体をグッと起き上がらせた。 「時臣!急に動いちゃダメだ!頭を打ってて後頭部にも傷があるんだから」 「えっ?」 時臣はキョトンとした顔で栄二を見る。とくに体のどこも痛くはない。 時臣はそっと頭の後ろに手を回す。確かに包帯が巻いてあった。 「俺、怪我してるの?」 「してるよ!俺が見つけた時、頭から血流して倒れてたんだよ?本当に驚いて・・時臣が死んだらどうしようって・・」 栄二はそう言うと時臣の手をギュッと握りしめた。 「雨が強くなってきたから、もしかしたら時臣はまたあの猫を探しに行ったんじゃないかと思って公民館での集まりが終わった後崖を見に行ったんだ・・行って正解だった。発見するのが遅かったらどうなってたか・・」 そう話す栄二の声は震えている。 「・・ごめん、栄二・・」 時臣は申し訳なくなり小さく頭を下げた。 「栄二の言うこと、ちゃんと聞けば良かったな・・心配かけてごめん」 「・・ほんとだよ。またやったら許さないからな・・」 「・・・うん」 時臣が頷くと同時にコンコンとドアを叩く音がした。続けて白衣を着た五十代くらいの男性が入って来る。時臣もよく知っている、町唯一の病院の院長だ。 「あれ、もう起き上がって平気なの?」 院長はそう言うと時臣の顔をまじまじと見つめる。 「うん、顔色も悪く無さそうだね」 「あ、あの・・ありがとうございます。俺、転んで怪我したみたいで・・」 時臣は包帯が巻かれた自分の頭を押さえながら言った。 「栄二君が見つけてくれてよかったよ。危ないところだった」 院長はウンウンと頷きながら栄二の方を見る。 「・・俺、そんなに危険だったんですか?」 「そりゃあね、頭を強く打っていたし、体も傷だらけだで・・」 「傷だらけ・・」 時臣は袖を捲り上げて自分の腕を見つめた。 しかし、その腕には傷一つついていない。 「・・・」 こちらは無傷だったのかと思い反対側の腕も見てみる。 しかし、やはりこちらも傷はない。 「・・どこを、怪我したんですか・・?」 時臣は自分の腕を見ながら聞く。 「えっ、そりゃあ、腕や脚なんかは擦り傷や切り傷が・・」 院長がそう言いながら時臣の腕をのぞき見る。 「あれ?・・ないね・・」 院長は戸惑いの表情を見せた。 それを見ていた栄二も、不思議そうに時臣の腕に触れる。 「確かに、さっきまであったはずの猫に引っ掻かれた傷がなくなってる・・」 「・・・」 時臣は心臓がドクドクと脈を打って早くなるのを感じた。 何かが・・起こっている? 何かが・・・ 『病気も怪我も怖くない。素敵でしょ』 あの猫の言葉を思い出して時臣はハッとした。 そして掴むように頭に巻かれた包帯に手をかける。 「時臣!?何やってるの?!」 「時臣君!やめなさい!」 院長と栄二が止めるのも聞かず、時臣は巻かれた包帯をむしり取るように引っ張って外した。 「・・・」 そしてソッと頭に触れる。 何も、どこも痛くない。 傷跡も血の跡もない。 「これは・・どういうことかな」 院長は驚いて時臣の頭をまじまじと見つめた。 「傷が、消えてる?」 「・・・」 嫌な汗が額に滲み出る。 時臣はガバリとベッドから飛び出ると、ペコリと頭を下げて言った。 「あ、あの!お世話になりました!治ったみたいなんで俺帰ります!!!」 「えっ?時臣君?!」 「時臣?!」 時臣は呼び止められる声を無視して、急いで駆け出す。 途中、誰かに声をかけられたり注意されたりしたが、そのまま裸足で病院の外へと飛び出した。 真っ暗な闇が広がっている。何時間眠っていたのだろう。雨は止んでいるが、厚い雲がまだ空を覆っているのか月は見えない。 一体自分の体はどうなっているんだ・・ 何が起こっているんだ・・ けど・・ここにいたらますます怪しまれる。一旦病院から離れなくては・・ 時臣は裸足のまま暗闇の中を駆け出した。砂利道で足の裏が痛いはずなのに、その痛みはすぐに消えてしまう。 そのことがさらに時臣を不安にさせた。 あの猫を探そう・・! あの猫が何かを知っている! 時臣はそう思いもう一度あの崖の方へと向かって走った。 「おーい!!ねこー!?」 時臣は崖に着くと大きな声で猫を探す。あの猫は会話ができたのだから答えてくれるかもしれない。 しかし、辺りは真っ暗な闇に包まれシンと静まりかえっている。この闇に同化してしまっては黒猫は見つけられないかもしれない。 時臣は意を決して再び木々の間に入り上へと登り始めた。 さっき猫を見つけた場所まで行こう・・そう思いぬかるんだ土に裸足の足を突っ込みながら登っていく。 上まで登り進めた時だった。 「ー・・・み!!」 後方で声が聞こえた。 ハッとして時臣は振り向く。 しかしその勢いにバランスを崩し土に足を取られた時臣は、滑るように下に落ちていってしまった。 「わぁぁぁ!」 低い木の枝先に顔や腕が引っ掻かれていく。さらに大きな岩に腰を打ちつけたが、一瞬カッと痛みを感じただけで、その痛みは続かない。 そのまま時臣はどんどん滑り落ちていく。 「時臣!!!」 崖下から栄二の叫び声が聞こえた。 栄二だ・・!しかし気づいた時にはもう目の前まで落ちてきていて、栄二にぶつかるようにして時臣の体は止まった。 「・・えい、じ・・?」 時臣が恐る恐る起き上がると、栄二が時臣の下敷きになって倒れていた。 「・・栄二!大丈夫?!」 時臣は慌てて栄二の体から下りると、栄二の顔を覗き込んだ。 「・・ぅん・・俺は、大丈夫」 栄二はゆっくりと体を起き上がらせる。 「下の土は柔らかくなってたし・・ほら。どこも怪我してないよ」 泥だらけになってしまった顔で微笑みながら栄二は両手を広げてみせた。 「・・栄二」 「それより、時臣の方がまた怪我したんじゃない?見せて?」 そう言って栄二はグイッと時臣の腕を引っ張った。 「あっ・・・」 思わず時臣の体が強張る。それからすぐに栄二の手を振り払って言った。 「だ!大丈夫!!どこも全然痛くないから!!」 手を振り払われたことが気になったのか、栄二は表情を曇らせながら聞いた。 「・・でも、結構高いところから滑り落ちて来たでしょ?」 「そうだけど・・でもほら!俺すごい丈夫みたい!!受け身が上手かったのかも!」 時臣は明るく言いながら両手をブンブンと振り回す。 「さっきの怪我もさ!大したことなかったんだよ!心配かけてごめんな!」 「・・時臣・・・」 「ほら、もう帰ろう。栄二の家も心配してるだろうし」 時臣はスクッと立ち上がると体中に付いた泥を払った。 「・・・でも」 「本当に大丈夫だから!」 思わず時臣は大きい声で怒鳴る。 これ以上、この異常な状態について触れてほしくない。 「・・・」 普段怒鳴ることなどない時臣の様子に驚き、栄二は何も言えずに黙った。 時臣はバツが悪そうな顔で栄二から目を逸らす。 「俺、疲れたから早く家の風呂に入りたいよ」 そう言うと時臣はゆっくりと歩き出した。 栄二は無言のまま立ち上がると、その後をついて歩いていく。 結局、家に着くまで二人は一言も話さなかった。 「それじゃぁ・・ありがとう・・」と口早に言うと、逃げるように時臣は自分の家へ入っていった。 家の中はシンと静まり返っている。 こっそりと両親の部屋を覗くと二人はすでに寝息をたてていた。 高校生になってからは、帰りが遅くなってもあまり心配されなくなった。 『きっとまた栄二君といるのだろう』と思われている。両親の栄二への信頼が厚いのだ。 時臣は自分の部屋に入るとグッタリと項垂れるように座り込んだ。 ・・最後まで、栄二の顔が見れなかった。 自分が・・普通ではなくなってしまったのではないか。化け物にでもなってしまったのではないか。 そしてそのことが栄二にバレてしまったら・・ 時臣はゆっくりと立ち上がると机の中にある鉛筆を削るためのナイフを取り出した。持ち手が金色の折りたたみ式のナイフだ。 そのナイフの刃先を少し寝かせた状態で腕にあてる。 ナイフを持つ手が震える。 思っている通りになっても、ならなくてもどちらもこわい・・ 時臣はゴクリと喉を鳴らすと、スッと刃先を立てて腕に線を書くように滑らせた。 一瞬、チクリとした痛さが走る。しかしそれは本当に一瞬で、うっすらとできた一本の血の線はみるみる腕から消えていった。 「・・・・」 時臣はただただ息を呑む。 もう一度と、今度は先ほどよりも力を込めてナイフで腕を切りつけた。 痛い・・! しかしそう思ったのもやはり一瞬で、腕から滲み出た血はすぐに消え、腕は綺麗な状態に戻った。 カチャンと、音を立ててナイフが手から滑り落ちた。 時臣はその場にヘタリと座り込む。 身体中鳥肌が立ち、ガタガタと震えた。 ・・自分の身に起こっていることは勘違いなどではなかった。 自分の身体は、変わってしまった・・・ どうしよう・・ こんな・・化け物のような体ではみんなに気味悪く思われてしまう・・・! それから時臣はあの出来事を思い出した。 あれは、夢ではなかったんだ・・ あの猫に会えば戻してもらえるのだろうか・・ それから時臣は町中のいろいろな所を黒猫を探して歩いた。 しかし同じような猫はいても、記憶にある紫の瞳の猫はいない。 あの崖にも何回か行ってみたが見つけることは出来なかった。 その間にも時臣は自分の身体の変化を感じていた。 炎天下の中、何時間も猫を探して歩いても疲れを全く感じない。 お腹が空いたり喉が乾くといった感覚もなくなった。 普通に食べたり飲んだりはするが、それを体が渇望する感覚がない。 何も食べなくても生きていけそうだ・・そう思った。

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