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第8話 別れ

「どうしてもやってみたい事ができたから」 そう言って栄二に別れを告げて時臣があの町を出たのは、卒業式の次の日だった。 町を出るまでに何度も「なぜ?」と聞かれたが、言える答えはそれしかなかった。 ただこれだけは栄二に何度も伝えた。 「絶対に栄二のもとに戻ってくるから!だから待ってて」 それで栄二が本当に心から納得してくれたとは思っていない。 それでも時臣のことを、そして自分の気持ちが変わらないことを栄二は信じてくれていたのだと思う。 就職したのは寮のある造船所だ。 広い敷地で多くの人間が働いていた。時臣もその中に混ざり配属された場所で必死で仕事を覚えた。仕事を覚えればあとは淡々と任された仕事をこなしていく日々の始まりだ。 あまり同僚とは深く関わらず、仕事に関する必要最低限の会話だけで過ごした。 誰かと深く関わって、自分の体の事がバレるのが怖かったからだ。 栄二からは手紙が頻繁に届いた。 植木屋の修行が始まった事や、町の人達の近況報告などが几帳面な字で綴られている。 そして最後はいつも同じ文で締められていた。 『時臣に早く会いたいです』 その言葉を読むたびに時臣は自分の心臓が締め付けらるように痛くなった。 早く会いたいのは時臣も同じだ。しかし自分の体がもとに戻る術はまったくわからないままだった。 道端で黒猫を見つけるたびに追いかけて抱き上げてみるが、あの時の黒猫に出会えたことはない。 あの黒猫もあの出来事も幻だったのではないか。時々そんな妄想もしてみるが、どんなに働いても疲れない体や機材で切った傷口がみるみる塞がる様を見るとすぐに現実に引き戻される。 『きっともとに戻れるだろう』という考えはどんどんと『もしかしたらずっとこのままかもしれない』という気持ちに押しつぶされていくようになった。 そして・・ 『会いたい』『会いに行く』 栄二から届く言葉を、『今はまだ忙しい、落ち着いてから』と言う返事で断り続け、気がつけばあの町を出てからもうすぐ一年が経とうとしていた。 時臣はふと顔を洗った後の鏡にうつる自分の顔を見つめた。一年前、この場所に来た時と何もかわっていない。 そのことに気がついて時臣はゾクリと背筋が震えた。 もしかしたら、俺はこのまま老けることもないのではないか・・・ もし本当にそうなら・・この場所にだってずっとはいられない。周りの同僚がどんどんと歳を重ねながら一人前になっていく中、自分だけが十代のまま変わらない姿でいたらいつか不審がられてしまう・・ 自分がいられる場所は・・・ もうないのではないだろうか・・ 家を出て地元を離れ一人で生活する日々。考えないようにしていてもふと感じる寂しさから、絶望へと簡単に流れてしまうほどに、その当時の時臣は未熟者だった。 ーー 気がついた時には時臣は地元の駅に降り立っていた。 あと数日で四月になるが今日は曇っているせいか空気が冷たい。 「この町はこんなに静かだったっけ・・」 色のない空を見上げて時臣はつぶやく。 一年ぶりの帰郷だが気持ちはずっとこの空のように暗い。 もう二度と戻ってこれなくなる前に、最後にこの町を、ここで暮らす人達を、見ておかなくては・・そんな思いで時臣はここに戻ってきた。 ヒュルリと吹いてくる海風が寒くて時臣は思わず首を縮める。 その時、ジャリっと砂を踏む音が聞こえた。 「あれ、時臣君?」 後方から名前を呼ばれ時臣は振り返る。 そこには鼻先を赤くした拓海が野球のユニフォーム姿で立っていた。 「どうしたの?いつ戻ってきたの?」 拓海は驚いた様子で時臣に近づく。 「たっくん・・久しぶり・・」 一年見ない間に拓海の背はぐんと伸びている。 視線が同じくらいの高さになっていている事に気づき時臣は思わず目を逸らした。 「時臣君が戻ってきてる事兄貴は知ってるの?今日何も言わずに仕事に行ったけど」 「あっ、いや・・急遽戻ってきたから。栄二は知らないよ」 時臣はぎこちない笑顔で答えた。 「そうなんだ・・なら早く兄貴に会ってやってよ。兄貴、時臣君が町を出ていってから見るからに元気なくなったからさ」 「え・・」 「本当しっかりしてほしいよなぁ・・」 拓海はそう言うとフゥと小さくため息をついた。 「じゃあ俺これから部活だから。またね」 「あ、うん、頑張って・・」 時臣は軽く手を振りながら早足で歩き始めた拓海の背中を見送る。 昔はいつだって栄二の後をついてきたがるお兄ちゃん子だったけど・・ 今はああやって栄二のことを心配したりして大人の表情を見せるようになったんだな・・ 時臣は小さくなっていく拓海の背中を見ながらその成長を実感した。 そして改めて時が止まっているのは自分だけなのだと感じた。 栄二に会わなくては・・ けれど・・それは喜びの再会のためではない。 自分を忘れてもらうための最後の逢瀬だ。 時臣はゆっくりと住宅が並ぶ方向へ歩き始めた。 今目に写る全てを焼き付けておこう。 もう二度と戻ってこられなくても、思い出せるように。 時々すれ違う知り合いが「時臣君!」と声をかけてくれる。 今はまだここには自分の居場所がある。あと何年それは続くのだろうか。 時臣はまずは実家に行く事にした。ちゃんと両親にも挨拶をしておきたい。 そう思ってそちらに歩みを進めようとした時だった。 突然グイッと強い力で腕が引っ張られた。 驚いて振り向くと息を切らした栄二が真剣な顔つきで時臣を見つめている。 「・・栄二・・・」 「・・・ハァ・・時・・臣・・」 栄二は息を整えながらなんとか声を絞り出す。 「さっき・・駄菓子屋の、おばさんに・・時臣が戻ってきてるって・・聞いて・・」 栄二はフーと長い深呼吸をすると、時臣の腕を掴んでいる手のひらにさらに力を込めた。 「よかった・・すぐに見つかって・・でも、なんで?」 「あっ・・ごめん。その・・急にこの町に戻りたいって気持ちになって・・」 時臣は気まずそうに下を向いて答える。 まさかこんなに早く会ってしまうなんて・・ まだお別れを言うための心の準備ができていない・・ けれど、会ってしまったのならば早く言わなくては・・ズルズルと先延ばしにしては余計に言いづらくなる。 「あ、あのさ!栄二・・俺・・」 そう言って上を向いた瞬間、時臣は栄二の両腕に力強く抱き締められた。 「え・・え、栄二・・ちょ・・くるし・・」 時臣は思わずバタバタと栄二の腕の中でもがく。 「時臣・・会いたかった・・」 栄二の掠れた声を聞き時臣はピタリと体を止めた。本当に心から会いたいと思ってくれていたのだと、この暖かな両腕から痛いほどに伝わってくる。 栄二は何も悪くないのに・・こんなに想ってくれているのに・・ お別れを、言わなくてはいけないのか・・ 時臣は包まれた栄二の両腕にしがみつくようにして顔をうずめる。 一体どうしたらいいのだろう。 わからない。 けれど・・普通ではなくなった俺の人生に巻き込むわけにはいかないんだ・・ そうだ・・それなら・・俺の人生を終わらせればいい・・ そう思った瞬間、時臣は振り払うように栄二の腕から勢いよく飛び出した。 振り返ってはいけない。英二の顔を見てはいけない。 時臣は潮風の匂いを辿るようにして海へと向かって走って行く。 後ろから栄二が何かを叫びながら走ってくるのを感じたが、時臣はただ海めがけて走り続けた。 やがて日の当たらない暗くどんよりとした海が目の前に開けて見えた。それは何もかもを飲み込んでくれそうな顔をして静かに揺れている。 靴を履いたままの片足をチャポンと水につけた瞬間、力強く後ろに引っ張られた。 「時臣!!!」 そのまま引きずられるように栄二に腕を引かれて時臣は海から離される。 「何やってるんだよ!」 栄二は時臣の腕を掴んだまま海岸を歩き始めた。 「急に帰ってきたかと思ったら、急に走り出して・・しまいには海に入ろうとするし。一体どうしたんだよ・・?」 「・・・ごめん・・」 時臣は足元に広がる砂を見つめるように項垂れながら言った。 「・・栄二、俺・・もう栄二とは・・一緒にいられない・・」 「・・・」 栄二は目を開きながら後ろを振り返る。 時臣は下を向いたままで表情がわからない。しかし微かに肩が震えている。 栄二は掴んだ腕にさらに力を入れるとグイグイと時臣を引っ張るようにして歩き出した。 「・・栄二?」 時臣は連れていかれるまま栄二の後を着いていく。 しばらくすると目の前に古い小屋が見えてきた。 ちょうどこの辺りは秘密基地の近くだったらしい。夢中で走って来たので気が付かなかった。 栄二は建て付けの悪い扉を乱暴に開けると時臣を中に押し入れた。 「え、栄二・・・」 何も言わない栄二の表情を窺うように時臣は話しかける。 「あの・・本当に・・ごめん」 時臣が再び謝罪の言葉を述べた瞬間、栄二は眉尻を下げた表情で顔を上げた。 「・・なにが?」 「え・・・」 「何が、ごめんなの?時臣」 「・・その、それは・・俺、俺はもう・・」 時臣が言葉に詰まると栄二は両肩を掴むようにして時臣を壁に押し当てた。 そして小さな声で呟く。 「・・他に、好きな人でもできたの?」 「えっ?・・」 「向こうの・・就職先で他に誰か好きな人ができたの?だから、ずっと会ってくれなかったのか?」 「!違う!違うよ栄二・・!俺は・・」 ずっと、栄二に会いたかった。その言葉が喉まで出かかって声が詰まる。 もう、そんなことを言ったってどうしようもない。だって・・お別れをしに来たのだから・・ 黙ってしまった時臣を見て、栄二は瞳を揺らしながら言った。 「・・そう、なんだな・・」 「・・・」 どう言えば良いのか分からず時臣は視線を横にずらした。 その瞬間、栄二は小さく舌打ちをすると時臣の顎を強引に上げて唇を重ねた。 「っ・・?」 時臣は目をぱちぱちとさせながら、塞がれた口から息を吐き出す。 「・・ふっ・・ぇいじ」 しかし少し開いた隙間から栄二の舌が入り込み、なんとか発しようとした言葉も塞がれてしまう。 時臣は両腕で栄二の体を押し返そうとしたが、逆に腕を掴まれてそのまま古びた壁に押し付けられた。 「っつ・・・!」 勢いよく背中を打ちつけれ時臣は思わず顔を歪める。 しかし栄二はその様子に構うことなく、時臣の口内を犯しながらするりと左手を時臣の腰に回した。 「?!」 ツツと背中を指でなぞられ思わず時臣はビクっと体を揺らす。それから栄二の指はそのまま前方に動くと時臣のそれをズボンの上からグイッと掴んだ。 「あっ・・!」 栄二の長い口づけで気がつけばそこは少し熱を持って膨らんでいる。 「・・・っ!!」 時臣は恥ずかしくなり両目をぎゅっと瞑った。 その反応を見た栄二は勢いよく時臣の下半身の衣服を下着ごと脱がすと、露わになった時臣の陰茎に自身の手を這わせた。 「ぅっ・・ぁ・・」 口内とそこを弄ばれて、時臣は小さな喘ぎ声を出しながらゾワゾワと肩へと上がる快感に身を悶える。 「・・とき・・おみ」 栄二の微かな息遣いも少しずつ荒くなり、その勢いに合わせて手の強さも増していく。 「あっ!!ぃやだ・・えいじぃ・・」 時臣は栄二の肩にしがみつくようにして、瞑った瞳からポロポロと涙をこぼしながら言った。 しかし栄二の勢いは止まることなく、時臣はビクビクと肩を揺らすと自身の熱を栄二の手のひらに解き放った。 「・・ぅう・・・」 時臣は力が抜けたように栄二の肩にもたれかかる。 しかし栄二はそんな時臣の身体を抱きとめたまま床に押し倒すと、自身も時臣に馬乗りになる形で座った。 「え、栄二・・・」 小屋の床には擦り切れたござが一枚敷いてある。時臣はその上に寝転んだ状態で目の前の栄二を見つめた。 「やだよ・・」 時臣が小さくそう呟いた瞬間、グイッと時臣の両足は抱えられるように栄二によって持ち上げられた。 「っ!・・」 栄二は先ほどの時臣が放った精液を、時臣の後孔へ濡らすように擦り付ける。 「っ・・!ぅあ・・」 止めさせなくては・・そう思っていても時臣の体は力が入らず、後ろに与えられる刺激にただ反応するしかなかった。 ニチャリと音を立てて指を抜くと、栄二は足までズボンと下着を下ろした。 そしてすでに熱を持った自身の昂ぶりを時臣の後孔あてがう。 「・・時臣・・」 ハァと小さく深呼吸すると、そのままグンと時臣の中へ押し入った。 「あっ!」 時臣はその強さに思わず大きな声をあげる。 栄二は時臣の太ももを両方の腕で持ち抱えると、激しく腰を打ち付けた。 乾いた肌と肌のぶつかり合う音が小屋に響く。 「あっ・・はぁ・・やだ!やぁ・・」 時臣は顔の前で両腕をクロスさせながら、栄二のされるがままの動きに合わせて喘ぎ声をもらす。 「ときおみ・・っ・・」 栄二は顔を紅潮させながら喰らい尽くすように時臣の唇に自身の唇を重ねた。 ピチャピチャと音を立てて口内を舐めまわされ、時臣は息ができない。 その間にも栄二の腰の勢いは激しさを増し、今度は時臣の溢れる蜜の艶かしい音が小屋に響いた。 「あっ・・や、やだ・・・いやだ・・えいじ・・」 しかしどんなに拒否の言葉を発しても栄二の動きが止まることはない。 それから程なくして、栄二はブルッと肩を震わせながら自身の欲望を時臣の中に注ぎ込んだ。 「ぁ・・」 お腹の中に熱を持ったものが流れ込んでくるのを感じる。 時臣は瞳に溜まった涙を一粒ぽろりとこぼしながら、乱れる息を整えた。 栄二もまた、肩で息をしながらずるりと自身の昂ぶりを時臣の中から引き抜く。 それからそっと手のひらで時臣の頬に触れると、悲しそうな瞳で見つめながら呟いた。 「時臣・・ごめん・・」 「・・・」 そんな寂しそうな瞳で見られては、もう拒否の言葉は言えない。 「うぅん・・俺こそ・・ごめん」 時臣も手を伸ばし栄二の頬にそっと触れながら言った。 ーー それから二人はゆっくりと目をつむった。 何時間くらい眠っていただろう。 時臣が目をパチリと開けると、小屋の中は真っ暗だった。 隙間から差す陽の光がない。もう日が沈んでしまったのだろう。 隣をふと見ると栄二が静かな寝息をたてている。 きっと朝早くから仕事をしていて疲れているにちがいない。 寝顔は小さい頃から変わっていない。無防備で幼い顔をしてる。 時臣はそんなことを思いながら、起こさないようにそっと額にキスをした。 それから静かに立ち上がると、音を立てないように慎重に扉を開けた。ただでさえ立て付けの悪い扉だ。ちょっとでも油断しようものならギギギと嫌な音が響いてしまう。 少しだけ開いた扉の隙間からスルリと体を滑らせるように出ると、時臣は再び音を立てないように扉を閉める。 思っていた通り日はすっかり沈んでいて、雲の隙間からほんの少しだけ月の明かりが見えていた。 目の前には黒く滲んだような海がユラユラとゆれている。 今ここに沈んだら、誰にも気づかれずいなくなれるだろうか・・ もはや呪いとしか思えない猫から与えられた奇妙な力も、自然の力には勝てないかもしれない。 もしそうなら、やっと解放される。この不自然な身体からも・・ 時臣は一歩、また一歩と静かに海へ近づいていく。 この辺りの砂浜は踏むとキュッと音が鳴る砂でできていて、足元から小さな音がする。子どもの頃はそれが楽しかった。 乾いたキュッキュという音を聴きながら時臣は静かに揺れる海面へと導かれるように入っていく。 三月の水温はまだ冷たい。 膝くらいまで海に入ったところでヒヤリと身体が一瞬震え上がったがすぐに慣れてしまった。 ジャブシャブと音を立てながら、身体はどんどん沈んでいく。少しすると足がつかなくなり、足元はふわふわと浮いた。 時臣は気にせずそのまま泳ぎながら沖へと進んでいく。 もうこのまま行けるところまで行こう。力尽きるその時まで・・・ 時臣は目の前に広がる真っ暗な海を見つめながらいつまでも泳ぎ続けた。 ーーー 「・・・」 喉を鳴らすような音が聴これる。 誰かが泣いているのだろうか。 時臣はゆっくりと重たい瞼を開けた。 「・・・」 前にも見たような天井が目に入る。 ここは・・・ そうだ。あの猫に会った日、怪我をして運び込まれた病院の・・ そこまで思い出して時臣はガバリと体を勢いよく起き上がらせた。 「え・・時臣君・・」 するとすぐ横から掠れた声で名前を呼ばれる。時臣がそちらを向くと拓海が真っ赤な目を見開いていた。 「・・たっくん?・・」 「・・・」 拓海は何も言わずじっと時臣をみつめる。 「たっくん、どうしたの・・?なんでここに・・?」 時臣がそっと手を伸ばそうとした瞬間、勢いよくその掌は拓海に叩き弾かれた。 「・・・っ?!」 時臣が驚いてその手を引っ込めようとすると、今度が拓海自ら時臣に詰め寄り胸ぐらをグイッと掴み上がて叫んだ。 「あんた何やってんだよ!?!」 「え・・・」 「あんたのせいで!あんたが海に入っていったせいで!!!」 元々赤かった拓海の瞳がさらに真っ赤になり、そこからボロボロと涙が溢れてくる。 時臣は状況が分からずただ息をのんだ。 そうだ・・あの時俺は、たしかに海へ入っていった。 とにかく行けるところまで・・力が尽きるまでどこまでもいってしまおうと・・ でも、あれからどうなったんだ・・途中でなんだか眠くなってきて意識が遠くなっていったような・・ 「・・・・」 時臣が黙ったまま俯いていると、再び力強く胸ぐらを引っ張られる。 「おい!聞いてんのかよ!?なんであんたはこんな平然としてんだ!?無傷で苦しんだ様子もなくて・・」 「・・・たっくん・・ごめん、おれ・・状況が・・」 時臣は胸元を引っ張られた状態で拓海を見つめながら聞いた。 拓海は眉間に皺を寄せるとパッと時臣の胸ぐらの手を離して横を向く。 それから声を震わせながら言った。 「・・・兄貴が、死んだ」 「・・・え・・」 「あんたが・・海に入っていくのを見た人がいて・・それを追いかけるように兄貴も海に入っていったって・・それから大きな波にのまれて二人とも見失ったから船出せる人達が探してくれて・・」 「・・・・」 「見つかった時には・・兄貴はもう・・なのにあんたは・・ただ、寝てるみたいな状態で・・見つかって・・」 拓海は辛そうに喉を鳴らしながら声を詰まらせる。 時臣は拓海の言葉を頭で何度も反芻しながらその様子を見つめた。 栄二が・・死んだ?? 俺の後を追って・・・? なんで、なんで・・・ 俺はただ、一人で消えようと思ったんだ。 なのになんで・・ 静かにあの小屋を出た。 気づかれないように。でも栄二はわかっていたのかもしれない。 目の前からいなくなろうとしていることを・・ それでも追いかけてきてくれたのだ。栄二はいつだって・・ずっと・・ 時臣は掌を握りしめるとバンと自分の太ももに打ち付けた。 なんということをしてしまったのだろう・・大切な人を巻き込んでしまった。最悪な結果で・・ 「・・たっくん、俺・・」 時臣は声を震わせながらなんとか言葉を搾り出そうとした。 「俺が、俺のせいで・・」 すると拓海が射抜くような赤い瞳を時臣に見せながら言葉を遮るようにして言った。 「・・兄貴は・・時臣君と・・無理心中しようとしてたのか?」 「えっ・・?」 思ってもいない言葉が聞こえて時臣は聞き返す。 「無理心中・・?」 「兄貴・・働き始めてからずっと親父に見合いを勧められてた。二十歳になる前に一回会ってみろって・・でも兄貴はその気はないって断り続けてたんだ」 「・・・見合い?」 そんな話は初耳だ。栄二に見合い話がきていたなんて。 「俺、気づいてたよ。兄貴は時臣君が好きなんだって。きっと普通の友達ではないんだって、小さい頃からなんとなくわかってた」 「・・・」 「でも、時臣君がこの町を出ていったから・・きっと兄貴の気持ちもそのうち気の迷いだったってことになるのかなって。そしたらきっとまた別に好きな人ができて、結婚して家を継ぐんだろうなって」 拓海は赤い瞳でじっと時臣を見つめた。 「けど、兄貴は変わらなかった。ずっと、ずっと時臣君だけ。時臣君がいなくなってから、ずっと寂しそうで、なんとか仕事で気を紛らわして毎日をやりすごしているような」 「・・・」 時臣は『会いたい』と何回も綴ってくれていた栄二の手紙を思い出した。 彼はこの一年間、どんな気持ちで過ごしていたのだろう。 ただひたすら待ち続けてくれていた。 何も知らないまま、自分を信じてくれていた・・ それなのに・・ 「・・俺が・・」 時臣は乾いた喉から声を絞り出す。 「俺が、栄二を・・道連れにした・・」 「え・・・」 拓海の瞳がパッと大きく見開かれた。 「・・消えようと思っていた俺を・・栄二は追いかけてきてくれて・・きっと俺が気づかない間にあいつを引き摺り込んだんだ・・」 時臣は震える自身の掌を見つけた。 どこも、何も傷がついていない綺麗な手だ。気を失って海を彷徨ったってどこも傷つかない。死なない身体。 けれど、何も知らない栄二は助けようとしてくれた。 ただ意識が遠のいただけの身体を支えようとしてくれた。 そして、そのままきっと・・ 「ごめん・・ごめんたっくん。本当に・・ごめん・・・」 時臣は項垂れたまま拓海に謝罪の言葉を述べた。 ただただ謝ることしか今はできない。大切な家族を奪ってしまったのだから・・ 拓海はその間、ずっと無言でその言葉を聞いていた。 それから少しして「両親を呼んでくる」と拓海は病室を出ていった。 時臣はその隙を見て病室の窓を静かに開けるとそこから外へと飛び降りた。 外は真っ暗だ。 おそらく真夜中だろう。本来ならば皆が寝静まっている時間だ。 目の前には明かりのない暗闇へと続く道がある。 しかし時臣は気にすることなく裸足でそのまま駆け出した。 怪我もしない、疲れることもない身体だ。 怖いものなんてもうなにもない。 一番怖いのはこの自分自身の身体なのだから・・ それからどこをどう走ったのか、あまり覚えていない。 とにかく遠くへ、行けるところまで走り続けた。 自分のことを誰も知らない場所まで。 あの町のことを知っている人がいない場所まで。 それから名前を偽り、年齢を偽り、事情を捏造し、どこでなら自分は生活できるのか、暮らしていけるのか模索し続けて生きてきた。 本当ならば、今すぐにでも消えるべき人間だったのに・・ ーーー ザザザァと砂を押しては引く波の音が響く。 要は静かに揺れる水平線を見ながら、先程トキから聞いた話について考えた。 祖父が『兄』のことについて触れないようにしていたのは、亡くなった理由についてあまり語りたくなかったからかもしれない。 狭い町だ。噂はあっという間に広がって「無理心中」だなんだと騒がれて大変だったのではないかと思う。 小さい頃、海は当たり前のように目の前にあって海に入ることも当たり前の日常だった。 だから海を怖いと思ったことはない。 けれど、漠然とした不安はいつもあった。沖まで泳いでいくと二度と戻っては来れない気がした。 その気持ちは栄二から繋がっていたものなのだろうか。 自分の中にいる栄二の存在を感じてゾクリと鳥肌が立つ。 「要君、お待たせ・・」 後ろから声をかけられて振り返ると、トキが目深くかぶったキャップの隙間からチラリと笑顔を見せて近づいてきた。 「・・どうだった?」 「うん。ちゃんとお墓があったよ。両親の名前が彫られてた。誰かがお墓のお世話をしてきてくれたんだね。たけちゃんかな」 そう言いながらトキは要の隣に並んで海を見つめた。 「ありがとう要君。ここに連れてきてくれて。俺一人じゃ絶対に無理だった」 「・・いや。別に・・」 要は視線を横にずらして答える。 正直、トキをここに連れてきたのは間違いだったのではないかと思っているからだ。 この町に来てからトキはずっと寂しそうにしている。 当たり前だ。昔一緒に暮らした人達がみな居なくなっているのだ。 自分だけが変わらない姿で。 要が何も言わずにいると、トキはふぅと軽く深呼吸してから口を開いた。 「要君・・もし、今要君の中に栄二がいるのなら・・少しだけ栄二と話をしてもいい?」 「え・・・」 要の心臓がドクリと音を立てた。 先程よりもゾワゾワと鳥肌が立つ。 「要君は何も気にしないで。そのままにしていていいから」 トキはそう言うと、視線は海に向けたまま話し始めた。 「栄二、来るのが遅くなってごめん。俺はずっとこの町から逃げ続けてた。栄二が死んだこの海を見るのが怖かった。 栄二の最後に・・俺は一緒にいれたのかもわからなくて・・一人でこの冷たい海の中にいさせたんだったとしたら・・どうしたら俺はその罪を償えるのかなって考えて・・ いつか栄二のもとにいけるまで、一人で生きていこうって思ったんだ」 「・・・」 「でも、結局矛盾していた。体は化け物みたいになったのに、人間として暮らしたくて。人間として暮らすにはやっぱり誰かと関わらなくちゃいけないから、一人でいるつもりでも誰かと話して知り合って今までやってきた。 技術の進歩ってすごいよね。昔は時間差のある手紙でのやりとりだったのに、今は携帯電話とかあってさ。連絡はすぐにつくし、返事もすぐ返ってくる。 どこにいるかもわかってさ。写真もすぐ撮って送れる・・ こんな時代だったら、もう少し俺達もすれ違わないでいれたかな・・なんて」 トキはヘヘっと鼻の頭を擦って笑った。 「栄二のこと大好きだった。ずっと一緒にいたいって思ってたよ。最後、栄二のこと避けようとして本当にごめん。許して欲しいとは思ってない。でも謝らせて。傷つけて悲しませて栄二の人生を奪ってしまって・・本当にごめんなさい」 「・・・」 それからしばしの間二人の間に沈黙が流れる。トキは軽くはぁと息を吐くと一旦下を向いてから要に声をかけようとした。 「要君、ありがと・・」 しかしその言葉は要の発した声で遮られた。 「時臣」 「え・・」 突然名前を呼ばれ、トキは要を見つめる。要もまたゆっくりとトキを見つめ返した。 「時臣、俺こそ・・ごめん」 「・・っ」 トキはその言葉で思わず息をのむ。 「俺が時臣を一人にさせた。俺が死んだせいで・・」 「!!そんなことっ!」 トキはガシッと勢いよく要の腕を掴んだ。 「どうしたら・・時臣を失わないですむか分からなくなっていたんだ。追いかけることしかできなくて・・」 「・・栄二・・・」 「・・ありがとう、時臣。時臣の気持ちが聞けて嬉しかった」 「えい・・」 「・・トキ?」 ふっと人が変わったように、要が目を丸くしてトキを見つめた。 「え・・あっ・・要君・・?」 トキは掴んでいた腕をパッと離す。 「・・今、栄二が・・話していた?」 要は掌を口に当てながら真剣な眼差しで聞いた。 「・・多分・・俺のこと時臣って言ってたから・・」 「・・・」 気づかぬうちに意識が乗っ取られていた奇妙さからか、要は眉を顰めて黙り込む。 「・・要君、ごめんね。本当にご迷惑をおかけしました」 トキは深々と頭を下げて言った。 「もう、大丈夫だから・・栄二には伝えたいこと言えたし、ここに来れて気持ちにも一区切りつけた。ありがとう」 「・・トキ」 「俺、もう帰るね!要君、ご家族によろしくお伝えください。お茶ごちそうさまでした。ありがとう」 トキはそう言うと、クルリと向きを変えて走り出した。 「えっ・・トキ」 要は一瞬追いかけようとしたが思いとどまり立ち止まる。 そしてトキの後ろ姿が見えなくなるまでその場で見届けた。 トキは、ここに来て正解だっただろうか。 何十年と胸に刺さったままの痛みが少しでも和らいでいたらいいのだけど・・ そして、また東京であの人懐こい笑顔を見せて欲しい。 今度はもう一人にさせないから・・

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