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ピアノの音色と人集りに引き寄せられるように近づくと、中心を囲うように緩やかな円を描いて多くの人が突っ立っている。皆の目線の先は中央のピアノと音を奏でている人物。
殆ど女性であることから、幸いにも律仁と並ぶくらいの身長がある大樹は人の頭と頭の間から覗きながらも、人物を目視することができた。
「先輩見えますか?」
「あぁ」
観覧客のために張られた、赤いパーテーションから少し離れた中央のグランドピアノで演奏していたのは、藤咲尚弥だった。世界に通用する程の腕前を持った彼がこんな所で、お金も取らず弾いていていいのだろうか。
驚きで言葉を失う。
手元の黒い手袋に違和感を感じたもののそれを上回るくらい身体を揺らして気持ちよさそうに弾いている藤咲を美しいと思った……。
クリスマスが近づいているからか、有名なクリスマスソング。周りを見渡せば目を瞑りながら藤咲が奏でる音に酔いしれている人、
手を繋いで聴いているカップル、様々な人達の心をも魅力していた。
一曲弾き終えると立ちまち拍手が鳴り響く。
藤咲の表情は終始柔らかくて、心からピアノを楽しんでいるようにも見える。
藤咲は暫く余韻に浸り、椅子から立ち上がると「ありがとうございました」と普段の冷たい彼からは想像できないほど、観覧客に対して礼儀正しくお辞儀をしていた。
彼のファンらしき若めのお姉様方からのプレゼントを貰う表情はアイドル顔負けの笑顔。
「先輩知ってましたか?尚弥、たまにストリートピアノやってるんです。動画とか上げたりしてて、それで律仁さんが動画を見つけてライブのゲストに呼んでいた経由があるんですけど」
「そうなのか、知らなかった……」
「先輩はどう見えましたか?尚弥のこと」
「どうって………」
藤咲はピアノに対して自分みたいに惰性でやっている訳じゃない、楽しそうで安心した。そして、弾き終えた後に見せた笑顔が昔の藤咲を思い起こさせて胸に湧き立つものを感じた。笑顔になれないのは俺の前だけで本人はちゃんと前を見据えて生きている。
それが少し寂しく感じたが、自分が口出し出来る立場ではない。
この距離で彼を遠くから見ている関係が、一番お互いの為のような気がした。
演奏は完全に終了したのか、周りに集まっていた人が徐々に捌けていき、それぞれの向かう場所へと散っていく。人が少なくなったのをいいことに渉太が「尚弥!!」と藤咲のことを呼びだしたので、大樹は慌ててアルバイトを口実にその場を去った。
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