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「その話って尚弥くんは知ってるんですか?」 大樹の問いかけに静かに首を左右に振る。 話しているうちに冷静さを取り戻したのか恭子さん、瞳の中で溜まっていた涙は既に引いていた。 「もしかしたら、耳には入ってるかもしれないけど、直接は言ってないわ。あの人の訃報は業界中に衝撃を与えてるほどだったから.......でも尚弥は父親の話をするのを酷く嫌がったから話せなかったの。あの子が、宏明さんに必要以上に触られてたことも知ってたの。だから.......あの子が忘れたがっているなら、それで幸せに暮らせるのならそれでいいとさえ思っていたの。フランスいた頃までは良かったんだけど.......」 この間の病室で話していた藤咲は自分が思っていた以上に傷が深いと知った。信じていた人に裏切られ....トラウマを植え付けられ、その加勢していた実の父親が亡くなった.......尚弥はどう思っているのだろうか。 俺と一緒で心底許すことなど出来ないんだろうな.......。 しかしコンサートの日、恭子さんのネームプレートには|久甫恭子《くぼ きょうこ》と書いてあるのを見た。離婚しているのなら姓は藤咲では無いはずなのに、藤咲と名乗っているのは.......。 「数年振りに日本に帰ってきて、ピアノのメンテナンスに呼んだらいつもの調律師さんじゃなくて弟子の方.......宏明さんが来たの。 最初はお断りしようとしたわ、そしたら宏明さんに、じゃないと尚弥に近づくって脅しかけられて.......尚弥に絶対近づかないことを約束して了承したの」 恭子さんが自らの意思で宏明を受け入れた訳ではないと安堵したが彼女に対する不信感は消えない。 もしそれが本当だとしたら、実の兄と言えども恭子さんまでをも揺すってどこまで卑劣なんだと憤慨した。宏明が藤咲に執着する理由が藤咲の父親だとしても藤咲自身には関係のないこと。 大樹は怒りを収めながらも左拳をテーブルの下で握り、歯を食いしばって聞いていた。 今ここで恭子さんに怒りをぶつけたところで何にも変わらない.......。

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