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脱衣所で着替えてから紺色の暖簾を潜り、真っ先に畳の休憩スペースを覗いたが、藤咲の姿はなかった。売店も探したが見当たらず、ただひたすらに男の姿を探していると施設の広場内にあったオルガンピアノに見覚えのある姿が佇んでいた。 黒いコートに覆われた細身の体の藤咲。 大樹は彼に気づかれないように近づいては、適度な距離で足を止める。暫く様子を眺めていると、藤咲は静かに鍵盤の蓋を開けて、じっと鍵盤から視線を外さない。彼の辺りが静寂と唯ならぬ緊張感に包まれていた。 大樹は時折休憩スペースの方から聞こえる、子供の騒ぐ声に耳を傾けることはあっても、目線は藤咲を捉えて離せずにいた。 藤咲は深く息を吐くと彼から伝わる緊張感に大樹も一緒になり、喉を鳴らした。 徐に手袋から右手だけを引き抜くと、何かの間違いで握るだけでも直ぐに折れそうな長くて細い指先が顕になる。 ゆっくりと、だけど確実に白い鍵盤の方へと近づいていく指先。藤咲自身がピアノに触れるのですら怖くなったと言っていた。 渉太の言うように藤咲は藤咲なりに踏み出そうとしているのだろうか……。 藤咲が人差し指で鍵盤に触れ、一番基本の「ド」の音が響き渡る。たった一音出しただけなのに、その一音への重さを感じたのは彼が触れることに対しての恐怖と好きなピアノに触れたいという入り交じった感情を知っているからだった。 施設だとかに設置されているオルガンピアノは大手のメーカー物が多いし都内で尚且つ個人の宏明が来ることは無い。だけどそれらを連想させるもの、人との接触は藤咲にとってはピアノのレッスンで植え付けられたあの恐怖を思い起こさせ、一生かかっても消えることがないのだろう。 手袋なしでは一音を弾くのがやっとだったのか、藤咲は右手を仕舞うと安堵したように肩を落としては鍵盤の蓋を静かに閉じる。振り返った藤咲と目が合い、眉間に皺を寄せて睨まれると一連の様子を見てはいけなかったような罪悪感に駆られた大樹は咄嗟に「すまん……」と謝った。

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