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宏明の過去

テントに戻ると律仁と渉太は既に寝袋に包まって眠りについていた。大樹もテントの中に入ろうとした時、背後の藤咲にジャケットの裾を掴まれて思いがけない出来事に身体が硬直する。一瞬だけ胸が疼いてしまったことに動揺しては、どうした?と平常心を保って聞いてやるのに精一杯だった。 そんな大樹を他所に藤咲は、「テントじゃない方がいい·····」と控えめに訴えてきたので、 大樹はそそくさとテントの中から藤咲の寝袋を引っ張り出すと、丸めて腕に抱える。 確実に藤咲が少しづつでも自分のことを信頼してくれている·····嬉しい反面、自覚すればするほど虚しい感情と織り交ざる。 車までの道中、藤咲からも何も発言してくることもなかったので、お互いに無言のまま駐車場まで辿り着くと、後部座席のシートを倒してやり、車内に寝袋を敷いた。 広々とまではいかないが二人くらいまでなら車中泊も余裕でできる広さだから藤咲も手狭に感じず安心して眠りにつけるだろう。 大樹は朝に迎えに行くと告げ、何かあったら連絡することを約束しては、その場を後にする。 テントに戻り、眠りにつこうと瞳を閉じてみても大樹は藤咲の満面の笑みが含まれた横顔を思い出し、胸に熱いものが込み上げてきてなかなか寝付くことができなかった。 それでも翌朝、約束通りに藤咲を迎えに行き、テントまでの道を共に戻る。 朝から藤咲と顔を合わせなければならないことに緊張していたが、彼の相変わらずの素っ気ない態度に大樹は助けられていたのもあってか、藤咲の姿を目にしても衝動的に焦がれていた想いは収まっていた。昨夜のは綺麗なものを見ていたが故の相乗効果で気の所為だったのかと言い聞かせる。 テントに戻ると藤咲を迎えに行く時には寝ていた筈の二人によって用意されたハムとチーズのホットサンドと粉末コーヒ。そんな優雅な朝を過ごした後、片付けをして、お昼前にチェックアウトを済ませた。 行きと同様に律仁の運転で藤咲の最寄り駅まで送り、大樹の運転で渉太はそのまま律仁のマンションへ向かうというので二人を送り届ける。自宅マンションの駐車場に車を納めて、エントランスに着いたのはもう日が暮れ始めた頃だった。 漸く怒涛のキャンプから帰ってきたのだと一息吐きながら、ヴァイオリンケースを手にマンション入口の自動扉に足を踏み出したところで、「大樹様」と呼び止められて、その聞き覚えのある声に振り返った。

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