92 / 292

12-8

一階が事務所なのだろうか、扉が閉まると同時に木琴を叩いたような綺麗な音色の鈴が鳴る。静寂の中「すみません」と声を掛けたが誰もいる気配がない.......。ゆっくりと様子を覗くように前へと踏み出してみると「宏明帰ってきたのか、随分早かったな」と奥の扉出てきた男が玄関先へと向かってくる。 見た目からして若くはない。黒いブルゾンを着て明らかに今作業をしていたと伺える軍手と作業用マスク、白髪頭の推定五十から六十代くらいの細身の男性だった。男は眼鏡をずらしてマスクをはずすと自分の姿を見るなり、首を傾げては一瞬だけ訝しんだように「えーっと君は誰だ?」と問いかけてきた。 大樹は深く一礼をすると、顔をあげ「初めまして、長山大樹と申します」と自己紹介をし、「兄の.......長山宏明がこちらにいらっしゃると伺ってきたのですが.......」と此方に来た経緯を話す。すると男は思い当たったように「ああ」と声をあげると長山という性と宏明という名前に少しだけ安堵の表情をみせた。 「宏明から弟がいるとは聞いていたが.......あんたか。宏明は今、隣町のコンサートホールに行ってるよ」 兄が何処までどのようにして家のことを他人に口外しているかまでは分からなかったが、 この男が険悪な表情をしていない様子から悪い印象を与えるようなことは話していいないような気がした。 兄の調律の腕は師匠の方が認めるくらい確からしいし、一人であちらこちら請け負いに出ていても不思議ではない。 「そうでしたか、戻ってくるのに時間かかりそうですか.......?」 「あー.......いや、夕方には帰って来るんじゃないか?」 兄がいないとなれば自分の目的はなくなってしまう。今は正午過ぎ、あと数時間待っていれば帰って来るだろうが、戻って来るまでの間何処かで時間を潰そうにもこの周りが山や田んぼだらけの場所で路頭に迷うだけだった。 男に「宏明が来るまで待っているか?」と訊かれたが、見ず知らずの方にお世話になるのも申し訳なさから「兄が帰ってきた頃にまた来ま……」とこの場を一旦退散しようと思っていたが、男に言葉を遮られ、「まぁ。いいから、来なさい」と半ば強引に此処で待つように促されてしまった。

ともだちにシェアしよう!