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大樹の言葉に耳を傾けない男に困惑しながらも先へ行く男の背中に「あのー……古林さんですか?」と問いかけてみると「だからなんだ」と鬱陶しそうな声音で返してきたのでその声に怖気付いた大樹は黙ってついて行くことにした。 職人気質の方は小難しいとはよく聞くが、やはり古林もそうなのだろうかと、身が引き締まる思いだった。その手の曲者は大学教授で慣れているとはいえ緊張する。 玄関先から一段差を上がり、部屋の中が外から見えないような作りなのかオーク材の細い板が等間隔で縦方向に並べられた間仕切りを通り抜けると、部屋の真ん中には大きなグランドピアノが置いてあった。流石、扱っているものだけに大々的に主張してくる。ピアノを見ると藤咲の弾いている姿を思い出す。 キャンプの恐れを見せながらも触ろうとしていた姿。パーティで顔色を青くしながらも関係者の前で弾ききった姿。そして大衆の前で楽しそうにクリスマスソングを弾いていた姿。彼とって弾くことは楽しくあってほしい、笑顔で居て欲しいと切に願う。 事務所を通り抜けて勝手口を出ると広いガレージのような場所へきた。そこにはたった今作業をしていたであろう縦型のアップライトピアノが置かれている。適当に座って待っておけと促しては、古林は作業へと戻ってしまった。大樹は近場の椅子に腰を掛けるとじっと古林さんの作業工程を眺めていた。 分解され譜面台に布を敷き、薬品か何かをふりかけている。多分これは塗装の塗り替え作業をしているのだろう。日頃知りえない光景を目にするのは少し好奇心を擽られた。 自分のヴァイオリンですら塗装が剥がれたら業者にそのまま依頼して直ったものを目にしているだけ。楽器は違えど似ている部分があるだろうし、どっちかというと大樹自身も表で演奏するよりも人の見えないところで作業している方が好きなので自然と興味が湧いた。 「君も音楽やってるのか?」 唐突に古林に問われる。 「あ、はい。ヴァイオリンを少しだけ.......」 「そうか」 《《君も》》ということは古林は宏明がピアノ奏者だったことを知っているのだろう。

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