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「すまない。お前が怖がることしたよな。だけど、俺は藤咲を裏切った訳じゃないし、この先も裏切るつもりはない。だけど、俺自身も兄の事を理解したかったんだ。あんなんでも唯一の兄弟だから·····。それに、その事でお前が苦しそうにピアノに触る姿は見たくない。藤咲を救えなかった分、今の俺に出来ることは最善を尽くすから·······藤咲が笑って弾けるように手伝わせてほしい·····」 大樹は藤咲の目線と合うように少し屈んでは、膝に手をつき、ヒクヒクと未だに引き攣らせながら泣く藤咲をじっと見据えた。 普段は凛としているのに目の前の弱々しい藤咲をみていると庇護欲を掻き立てた。 ちゃんとご飯は食べているのかと問いたくなるほどの細い身体、手袋越しからでも分かる長い指、泣き腫らした顔、全て抱きしめて俺が守ってやりたい·····。 「僕は·····あんたに触れても平気なくらいになりたい·····」 藤咲のか細い声に、触れるという単語にドクリと胸が波打つ。大樹は深く息を整えては「分かった」と小さく返事をした。 ------------------------------------------- 「おっ。大樹くん、おかえり」 あの後、藤咲を駅まで見送って店まで戻ってきた。店内はサックス奏者の演奏は終わっていたものの座席で飲食しているお客は先程よりは減っていたが、ポツポツといた。帰るなり筒尾に頭を下げて「すみません」と預けていたヴァイオリンを受け取る。 藤咲のお代を払おうと財布を取り出すと「いいよ、いいよ。彼珈琲一杯しか飲んでないし。友達大丈夫そうだった?」と逆に心配されてしまい、「なんとか·····」と曖昧に濁してやり過ごした。 自分も今日はこの辺でお暇しようと挨拶をした時に「あ、これも」と言って筒尾に小さくて茶色い有名チョコレート菓子店のロゴが入った紙袋を差し出された。大樹は首を傾げながらも渡された紙袋を受け取る。 「藤咲くんの座ってた席に置き忘れてたみたいでさ、彼の忘れ物じゃないかな?大樹くん仲良いんだろ?彼に返しといてくれるかい?やっぱり彼もモテモテなんだねー」 藤咲の忘れ物·····。 紙袋を覗くと綺麗に淡いピンクの包装紙に赤色の透明なラメ入りリボンが装飾された箱が見えた。明らにチョコレートや贈り物の類だと分かる。大樹はカウンター上に置かれた小ぶりの黒板に今日のおすすめカクテルと共に書かれた日付を見遣ると2月27日とバレンタインから大分過ぎていた。 まあ、バレンタインじゃなくても藤咲なら路上のピアノ演奏で数名のファンの子たちから 差し入れを貰っていたのを見たことがあっただけに、おかしくは無い。しかし、陽気に喋る筒尾の傍ら、大樹は心臓を引っ掻かれたような胸騒ぎをさせていた。藤咲に好意を抱いているものがいると思うと酷く気に食わないと思ってしまっている自分に動転する。 制御しようとしても心というものは正直で、 嫉妬して、藤咲が人に触れられるのが怖いと言っていたにも拘わらずに、引き留めたくて強引に抱き竦めてしまった大樹自身の独占的な欲。 藤咲に「あんたと触れても平気なくらいになりたい·····」と言われ、藤咲へ触れるという事が言葉で明確になった途端身体の熱が一気に上昇し、頭が揺れ、ふらつきそうになった。 あんなに気持ちを押し殺す思いでいても、藤咲を前にすると意図も簡単に崩れていくのが手に取るように分かる。 自分はちゃんと藤咲に節操のある頼れる人でいられるだろうか。認めざる負えない感情と遠ざけることのできないこの存在。大樹には理性を保てる自信がなかった。

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