110 / 292
複雑な恋心
目を瞑ってじっと悪魔のように忍び寄る手が引くのを祈るように待っていたあの頃。
大好きで優しくて誰よりも尊敬していた父と
信頼していたピアノの先生がいけないことをしていた。
其れが道理に反していることなんか幼いながらでも分かったし、何より父のあんな乱れた姿は見たくなかった。裸の先生と目が合い咄嗟に父親の部屋から自室へ逃げてきたが、しばらくして先生が部屋に入ってくると、そこから悪夢が始まる。
「尚弥、いい子だね。絶対演奏を止めちゃダメだよ?」
レッスンが始まると決まって宏明の膝に乗せられ、鳩尾を太い腕で抱き竦められては逃げることができない。以前なら心を許し、好き好んで先生の膝の上に乗ることもあったが今は違う。
自分が演奏している間にも短パンの膝を撫で回すようにその全てを飲み込んでしまいそうな大きな手でなぞられ、短パンの裾からギリギリまで忍び込んでくる指は怖気と不快感に襲われていた。
涙で視界が滲むが弾かなきゃいけない、弾き続けなきゃいけない·····。
じゃないと先生が怒るから·····。
ぶたれて痛いことをしてくるから·····。
時折耳元に息を吹きかけられ、耐えるように唇を強く噛んだ。人は本当に恐怖を感じた時、声が出せなくなるのだと知った。
久々にいつもレッスン前に遊んでくれていたお兄ちゃんに会うことが出来たとき、安堵と縋る思いだった。自分にとって唯一頼れる存在。優しいお兄ちゃんならきっと何とかしてくれると思って助けを求めたが、その期待は失望に変わる。
お兄ちゃん、助けてと何度も唱えてもドアの向こうへと去っていく背中に絶望し、怒鳴り散らかす先生が恐怖で約束を破ったお兄ちゃんが許せなかった。
先生の怒号が飛ぶ部屋で身体を引っ掴まれて
床に押さえつけられたところを、長山の付き人、高崎さんが来てくれたことで最悪な状況は免れたが、あの時の恐怖や先生が身体を触る感触は一生消えることはなかった。
記憶の片鱗が飛び飛びに交差して自分を苦しめ続ける·····。
「·····ヤ、·····オヤ·····ナオヤ·····」
名前を呼ばれ意識を戻すと目の前には見慣れた鍵盤と怪訝な様子で顔を覗き込んでくる
ピアノ講師のルシィの姿があった。
ともだちにシェアしよう!