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「不幸だって兄さんが言っていたんですか?」 宏明が不幸だったかなんて本人に訊かなければ分からない。しかし、藤咲さんと一緒にいることが彼にとって獣道だったかもしれないが、結末がどうであれ愛する人と共に生きる選択を選んだ宏明が不幸だったようには思えなかった。 麗子は兄自身が不幸だと言ったのか言ってないのかと聞いているのに麗子は「不幸に決まってるわ。あの子は可哀想な子なの、あの男に|恋現《こいうつつ》を抜かしたせいで家も追い出されたのよ·····」と目に涙を浮かべ、ハンカチで拭う動作さえ、大樹にとっては白々しく感じた。 宏明を不幸にしているのは勝手に決めつけ、哀れんでいる麗子の方だ。 「兄が来られたようですね。貴方にお金を返しに」 高崎から聞いた情報を麗子に突きつけると彼女の瞼を拭う手がピタリと止まり、怒りを表すかのようにハンカチが皺くちゃになっていく。 「そうよ。あの子は何を考えているのかしら、音楽の才能もない私がいなければ、何も出来ない子なのに。だから大樹さんは分かるでしょ?私の言う事を大人しく訊いて、貴方は昔から才能はあるんだから今からでもやり直しは利くわ。勉強なんかに現を抜かしてないで私の意志を受け継ぐのよ。伝で楽団に入れば卓郎さんの·····」 「麗子さん、僕の話し聞いてましたか。僕は今後音楽の道を進む気はないと言ったんです」 「貴方の意思なんて関係ありません。これは長山の人間としての義務です。あの男とも手を切って貴方はヴァイオリンのことだけ考えなさい」 麗子に決別を言い渡した宏明を蔑んだかと思えば俺の意志など尊重もせず義務を押し付けてくる。何度話そうとも意見を曲げようとしない麗子に腹立たしくも今までの自分であれば強く反発する勇気などなく、その怒りを飲み込んで素直に受け入れていただろう。 だけど今は違う全てを変えるためにここにきた·····。 あんなことをした以上、もう望むことが出来なくとも藤咲の傍にいたい気持ちは変わらないから·····。

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