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恋人はもちろん、母親とも事務的なやり取りしかしていない今、彼のほしいであろう返答をしてやれない。尚弥はダニエルからの問いに激しく頭を振って否定をすると『そうか、君くらいの年齢なら恋人の一人や二人くらいいるとは思っていたんだけどな····』と半ば残念そうにしていた。
『君に弾いてもらう曲だけだけど、今回のテーマでは色々な愛の形についてお客さんに音楽を通して感じてもらいたいんだ。観客の中には恋人同士で来ているものはもちろん、愛する家族と来ている人もいる。みんなそれぞれの人生にドラマがあるんだ。その中で君には恋人と愛すること、それがどんなに禁じられた愛だとしても、お互いを求め合うこと愛することの美しさや儚さを音色で現してもらいたい·····』
身振りをつけて尚弥に訴えてくる姿を見て、彼のこの公演における熱量が伝わる。
僕自身もピアニストである以上、それに応えたい·····。今までだってそうしてきた·····。
公演が数日に迫った今、貴重な2回しか無かった全体リハーサルでダニエル本人に頭に血をのぼらせて怒鳴られては彼の納得を得た演奏で終えることが出来なかった。不調の状態で周りの奏者にも迷惑を掛けてしまい、本番までにどうにかしないとプロとして失格な程に追い込まれている。
それを危惧しての彼本人からの助言であることは重々に承知しているだけに、本番までにとは言わずとも一刻も早く抜け出さなければならなかった。
『ダニエルさん·····僕、愛したいと思った人がいても愛せないんだ』
プロとして応え、意地でも公演を成功させなければならない。しかし、尚弥が愛に関しての穢れを感じている以上、ダニエルが情熱を肥やしてきた想いを尚弥が音に乗せて届けることは出来ないのは明確であった。
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