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その藤咲の表情から勝手に部屋へと足を踏み入れたことを酷く後悔した。どこか具合が悪くなったワケじゃない·····俺の気配を感じたから藤咲は思うように弾けなかったのではないか·····そんな雰囲気を感じとったからだ。 「ごめん·····俺のせいで気が散ったんだろ?練習の邪魔したよな。今すぐ出ていくよ·····」 ドアノブを掴み、部屋から出ようとした所で 背後から「待てよ」と自分のことを呼び止められて踵を返す。 「·····あんたピアノ弾けんの?」 「え·····まあ少しだけなら·····」 弾けると言っても幼少期に少しだけレッスンしていただけで、今は素人以下のレベルでしか弾けない。5歳の時、母親からヴァイオリンの教育を受け初めて以降はそれ以外の楽器に触れてきたことはなかった。 「なら弾いてよ」 藤咲がピアノの話を持ちかけてきた時点で要求されるような気はしていたが、案の定だった。 「ヴァイオリンに触れてからピアノなんて何十年も弾いてない。だからメロディくらいしか弾けないと思う·····」 「いいから、あんたの昔好きだった曲弾けよっ」 自分の右手首を強く握り、その黒く澄んだ瞳から雫が伝う。藤咲は何と戦っているんだろう·····。ダニエルと話しているときに、『尚弥、調子が良くないみたいなんだ。だから友達の君が来てくれてよかったよ。これで彼の気持ちが楽になるといいんだけどな』などと藤咲が気を逸らしている隙を狙ってか大樹に呟いてきた。 演奏で思い悩んでいるような気がしたからこそ邪魔をするべきではなかったと後悔したところだった。しかし、彼が俺に要求してきている以上、応えることで彼の少しの手助けになるのだろうか。 もう彼に触れることは許されないから、この想いを成仏させるためにせめて最後として·····彼の助けになるのなら·····。 大樹はゆっくりとピアノ椅子に腰掛ける藤咲の目の前まで近寄ると立ち止まっては見下ろす。 「椅子·····藤咲、俺の隣なんて嫌だろ·····。空けてくれると有難いんだけど·····」 「このままがいい·····隣に座って·····」 彼の本意を見透かすことが出来ぬまま、藤咲の発言に目を見張ったが、大樹は彼の意志を尊重してすぐさま受け入れると背後を回って左側に立った。 たかが藤咲の隣に座るだけとはいえ、酷く緊張する。ピアノ椅子は人二人が漸く座れるくらいの広さなだけに距離の詰め方を間違えれば肩がすぐに触れ合ってしまう。 藤咲に大きな心身のストレスを与えてしまうことはわかりきっていた。

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