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尚弥の真意

余韻に浸る暇もなく、長山が去った後のピアノ室で尚弥は呆然としていた。 両腕を抱き、先程一瞬だけ抱きすくめられた時の彼の匂いや感触を思い出しては身体が震える。 それは長山に対しての恐怖だとか不快感からとかではなく、あの時自分も感極まって彼と強く抱擁をしたいと思った己の感情からだ。 いつもなら感情の湧かない演奏で過去のことを唐突に思い出しては視界が歪むほどの吐き気や目眩がして、それでも理性を保ち誤魔化していたのに先ほどの長山との連弾は、苦しみに耐えながら演奏を続けるというよりは、自然と楽しさと心地良さで胸が一杯になっていた。 「ありがとう」と目を細めて笑っていた長山の表情を思い返しては胸が擽ったくて、凄く大切にしたいようなそんな愛おしさを感じ、言葉にならない感情を抱えているうちに去っていく長山の手に己の手を伸ばしかけていた。 幸い掠って触れずにいられたことに安堵しながらも去りゆく寂しそうな背中を眺め、居なくなったあとの虚無感と同意にそんな自分の抱いた感情への罪悪感に襲われ、強迫症状に見舞われる。尚弥は、この長山を想った感情は穢れたものでは無いのだと自己暗示しながらも、前屈みになり、腕を抱くことで耐え忍んでいた。 本当は長山の気持ちに応えたい…。 じゃなきゃブリュッセル首都内で見かけた時、正直驚いたがそのまま無視しても良かった。長山からの連絡は未読無視をしていたし、彼から逃げるように何も連絡をすることなく此方へ来たのだから自分から話しかける義理はない。 一度見かけて放っておいたもののダニエルとの買い物中、気になって仕方なかった。あんな人通りの多い場所で何をしているのか。ぼーっとワッフルなんか食べてスリの格好の餌食になるにもかかわらず。 自分に会いに来たのだろうか…。 買い物終わりにもう一度通ったその足で気が付けば長山の前に立っていた。 やっと動けるまでに回復したのは一時間後。 ピアノ室を出てリビングへとドアに手をかけ、少し戸を開けたところで話し声が聴こえてくる。尚弥はピタリと腕を止め、内容に耳を傾けていると 英語圏の会話に男性二人の声、声の主はダニエルと大樹のものであった。 どうやらダニエルの親しいもの達はみんな帰宅し、子供達は寝室でソフィアは我が子たちを寝かしつけているのだろう。数時間前とは打って変わって嵐が去ったかのように鎮まり返った部屋でダニエルと長山が話しているようだった。

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